(以下、激しくネタばれですのでこれから「弱法師」を読もうという方は読まないでください。くれぐれも。)
三篇はすべて、雑誌掲載時に読んでいた。
改めて読んだ中で、心に響いたのは、「卒塔婆小町」と「浮舟」の二篇。
特に「卒塔婆小町」。
連載として別冊文芸春秋に掲載されたときは、この作品がちょうど同じ時期に自死を遂げたレスリー・チャンにささげられていた。
この一篇を読んで、はたしてレスリーの死に触発されて書いたにしては時期的に早すぎるし、死の後で偶然の一致をみたとすればあまりにも痛々しい内容に思えて気になってしまったのだけれど、今回は連載を束ねたこの作品集そのものが「レスリー・チャンにささぐ」となっている。
実はこの作品集、私は連載時の印象であまり良いと思えなかった。
けれど、今回こうしてまとめて一冊として読んだときに、鮮やかに浮かび上がるキーワードに打ちのめされた。
それは、十年前の流行り言葉であり、うかつに作家が使ってはいけない文句のひとつと私には思える。。その言葉。
純愛。
帯にこのキーワードが印刷されているのが逆に残念でならない。
この言葉は、三作品を一気に読んで、読者自身が見つけるべきものなのに。。。読者の楽しみを奪うなんてーー。。。。と、ちょっと中山可穂を恨んだりもする。
帯には気をつけてくださいー。。。編集者様(笑)
私が「卒塔婆小町」を好きな理由はいくつかある。
この作品には作家の分身と思われる人物が二人でてくる。
言うまでもない、主人公であり語り手である編集者百合子、そしてもうひとりの主人公の作家、深町。
深町は百合子に対して叶うことの無い絶望的な恋をしながらその思いのありったけを100篇の小説に託して百合子への恋文として綴り続ける。
百合子は、編集者として、あるいは読者として深町の才能にほれ込み、描き出される世界に魅せられてひたすら彼の文章を渇望し、100篇の作品を次から次へと求め続ける。
二人の情熱は激流となって互いへ向かい流れ続けるが、決して交わることはない。それが悲劇へと二人の人生を向かわせる。
百合子のセクシュアリティは、深町の愛を切って捨て、深町の愛は百合子の編集者としての冷酷なまでの魂に傷ついてゆく。
百合子は常に中山可穂が描いてきた主人公たちとは違い、愛を求めながらも拒絶しつづけるというある意味救いのないキャラクターで、深町は得られないものをただただ求め続けるというこれもまたあまり見ない、破滅に向かうキャラクター。
いつもの中山作品では、彼女らは最後には何かの救いを得る。
愛であったり、芝居であったり、友情であったり。。。
その救いが、この中篇では見られないのだ。
百合子の編集者としての冷徹さ。
深町の作家としての熱情。
これらを併せ持つことは、すなわち死への階段をまっすぐに上ってゆくことに他ならないとしたら、中山可穂はいったいどこへ向かうんだろう。。?深町の墓を守る卒塔婆に彼が吐き出した言葉を刻んでいっただ百合子は、幸せだったろうか。。?
死して後、気を狂わせるほどに愛し、とうとう生きて抱くことのできなかった女の亡骸を、墓石で抱くことのできた深町は。。。。?
私が愛してやまない「天使の骨」の王寺ミチルは、これらを併せ持ちながら、最後には現実という扉に正面から向かって駆けて行った。
もしかして、百合子は、深町は、駆けていった後のミチルなのだろうか。。?
純愛というキーワードを擁した三作品「弱法師」「卒塔婆小町」「浮舟」どれもすべて、死の匂いが色濃い。
死の匂いと言って、ふと倉橋由美子「よもつひらさか往還」を思い出す。
骸骨と愛し合い、ペルセポネと睦みあう少年。
時空を越え、生命の限界を越えて情事を重ねる主人公もまた、ある意味純愛信奉者に見える。
純愛は死をもってしか完結できないのか。
純愛を制するには性(生ではなく)をもってしかないのか。
ミチルの駆けていった先は、天国なのか、それとも死臭漂う黄泉なのだろうか。。
考えながら、もう一度読んでみようか。。
と思いながら、「それでは結局どうしてこの作品が好きなのか」が自分でもわかってないことに気づく。。。呆然。
しばらくは、この本から離れられそうもない。
レスリーへの献辞が網膜から消えない間は。。。
sotoba_komachi_hoka
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