ここ数年間、まともに映画を見ることがなかった。
正確には、「新しい映画」を見ることがなかった。
私が見ていた映画は、昔自分が見て面白かったもの、心に残ったものに限られ、過去の感動をモニターに映し出し、胸の中のスクリーンに再現してためいきをつく日々だった。
未だにそれは続いていて、新しい映画のソフトを借りてきても、それはビデオデッキの上に放置されたまま、レンタル期間が切れるのをまってのろのろと店に返却されることが多い。
そういう中、「めぐりあう時間たち」を見た。
見たい見たいと思って一年以上たった映画で、すでにレンタル店でも「新作」のシールをはがされて久しい。
いつのころからか、抱えていた小さな爆弾が時を刻み始めている。
その爆弾は「セクシャリティ」「ジェンダー」という切り札を表面にびっしりと貼り付けていて、見たものがその切り札にほんのわずかでも抵触すると、とたんに爆発までのチクタクを刻み始めるという具合だ。
ときおりその爆弾は時計を止める。忘れるといったほうが正しい。
忘れている間は平和そのもの。
存在さえ忘却の彼方だが、やがて私は年中時を刻む状態に陥った。
小さなことで、爆弾が振動し、針がぎゅんぎゅん回り始める。
なだめてもなだめても、次々とやってくるなにか。
その正体を見極めるには、私は疲れすぎている。
「めぐりあう時間たち」の邦題(原題は「The Hours」)は、時代を隔てて存在する三人の女性たちの間を橋渡しする時間連鎖を表している。
映画は1941年、イギリスのサセックス、作家ヴァージニア・ウルフが入水自殺をする場面から始まる。時代と場所は移ってカリフォルニア、ウルフの著作を愛する主婦ローラ、さらに数十年後のニューヨーク、「ダロウェイ夫人」の愛称を持つクラリッサの日常が、ウルフの執筆風景を背景に、次第に、水がにじんでゆくように、やがて奔流となって流れ込むように画面に展開してゆく。
女性が人間であることを認められていなかった時代、女性であり小説家であるという社会的に矛盾する立場にあったウルフの苦悩になぞらえるように、二人の女性たちはそれぞれに自分の生き方をその時代に沿わせていこうと苦心している。
ローラは鈍感な夫と、感じやすい幼い息子、そして妊娠中の自分の身体と心のバランスに苦しみ、存在理由を捜し求める。
クラリッサは、HIVによって生きる可能性をせばめられている元恋人の才能を伸ばそうと力を尽くすことで、かろうじて生きる場所を得ている。
私が気になったのは、クラリッサの在り方。
10年も暮らしている恋人(女性)がいながら、彼女をまったく省みず、昔の恋人の死にゆく姿にすがりついている。なぜ彼女がリチャード(昔の恋人)にこだわるのか。
現在恋人の病気に依存している状態の私には、その理由が痛いほどに分かる。
「死」あるいは「病気」という巨大な恐怖の前では、自分の小さな悩みを棚上げすることに罪悪感を感じないで済む。
自分が必死で彼を支えようとしていること。
彼が苦しんでいること。
自分もまた彼のために苦しんでいること。
それらは、誰の目にも、たとえクラリッサの恋人の目にもはっきりと見える免罪符となってクラリッサを守ってくれる。
その免罪符が実はクラリッサにとっての最大の障害であることもまた、誰の目にも明らかなのに。
"You cannot find peace by avoiding life"
(「人生から逃げても平和は得られない」)
うつ病や幻聴、幻覚に苦しむウルフは、病気から逃げ出したいばかりに一人でロンドン行きの電車へ乗り込もうと駅へと逃げ出す。
ホームのベンチに座り、電車を待つウルフを、彼女の夫が追いかけてきて見つける場面。ロンドンへの逃避行を自らあきらめるウルフが口にする言葉。
この言葉をキーワードにすべての物語が静かにクライマックスへと流れ出すのだ。
何かが足りないと思いながらも突き止められないローラ、進めない原因が分かっていながら自ら飛び込んだ罠から逃れられないクラリッサ。
人生の落とし穴に落ちながらも果敢に空を見上げ続けたヴァージニア・ウルフの抱く絶望と希望を礎に、それぞれの見つめる「生」にむかって駆け出し、あるいは投げ込まれる女性たちは、一見悲壮で救いのない道行きに見える。
けれど、夫と息子を失ったローラも、リチャードを失ったクラリッサも、悲しんではいても、決しておぼれてはいない。
人生の選択を悔やんでいないかというクラリッサの問いにローラが答える。
"What does it mean to regret when you have no choice? It's what you can bear. And there it is... It was death. I chose life. "
(「後悔なんて意味があるかしら。後悔したって死にはしない。死ぬか生きるか。私は生きることを選んだのよ」)
エンディングロールが流れたとき、息を詰めて見入っている自分に気づいた。
時限爆弾の音は聞こえなかった。
見ている間、一度も。
自死を選んだヴァージニア・ウルフ。
一人の人生を選んだローラ。
選択の余地なく自らの人生に投げ出されたクラリッサ。
誰がいちばん幸せなのか
あるいは、誰がいちばん不幸なのか。
その答えを映画は描いていない。
答えは、見る私がさがすべきなのだ。
私自身で。
公式サイト:http://www.jikantachi.com/home.php
<めぐりあう時間たち、2002年、アメリカ>
the_hours
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