映画「めぐりあう時間たち」を見て以来、ヴァージニア・ウルフの著作を再読したくてたまらない。
でも、うちには一冊もないので、ウルフを読みたくなると図書館へ行くほかはない。
なのに、ウルフの本はすべて閉架書籍。つまり、自由に出入りできる書棚においてある開架書籍とはちがって、スタッフに頼んでもってきてもらわないといけない。
なぜそんなところに。。。。。?
人気がないんだろうね。。。やっぱり。。とため息。
ウルフより、ほんの少し遅れて文壇にあらわれたのが、メイ・サートン。
彼女の本は一冊のみ、「独り居の日記」が自分の本棚に並んでいる。
落ち着かなくて眠れないときなど、本棚から取り出して読む。
流れるような文章に情景が紛れ、精神世界と日常が交じり合うメイ・サートンの文体につられて、いつか心は夜に解けてゆく。
老年を迎えた詩人の日々をつまびらかに描いた、この秀作の少し前、詩作に対する熱情をより純粋にペンに注ぐため、荒れ果てた岩だらけの地へとサートンは居を移している。新しい土地で、自然と闘い、素朴な近隣の人々との交流の中、日常に行き来する思考の数々を紙面にとどめたのが、「夢見つつ深く植えよ」という作品。
なによりこの本の多くを占めるのは、サートンの庭との格闘。
杭を打つたびにぶつかる岩を掘り起こし、球根をうえ、種をまき、水をやり、ときには手をかけすぎて枯らし、ようやく育てた草花が、訪れる干ばつで枯れてゆくのを手をこまねいて見ているしかない無力さへの嘆き。
50になった詩人が取り組んだ移住の大事業に、どれほど打ち込んでいたことか。一文一文にこめられた、自然への、家への愛情に、おもわず震える。
この土地の家、庭、そして得がたい素朴な人々。
それらすべてが、この荒れた土地に根付いた魂なのだと、サートンの文章は訴えかけてくる。
20世紀とともに生まれ、死んでいったサートンは、詩人で、小説家で、女性で、同性愛者。絡み合った彼女のアイデンティティは、戦乱と激しい社会情勢の変化の中、どこにも居場所をもつことができない。
隣人の善良さやこの土地の自然の厳しさについて愛情をこめて語るとき、しかし彼女の視点は完全に外部のものとなっている。愛すべき友人に関して語るときでさえ、余所者である彼女の一組の目は、冷静にコミュニティを見渡している。
サートンは、どれほどひとつの土地に根付きたいと願ったことか。ページを繰るごとに彼女の祖先への、土地への、家への、コミュニティへの深い思いがじわじわと押し寄せる。
この本には、交流のあったウルフとその恋人といわれる女性ヴィタ・サックヴィル・ウエストの話が、友人の小さな噂としてときおり散りばれられている。
また、サートンの事実上カムアウトとなった著作「ミセス・スティーブンスは人魚の歌を聞いた」を出版するにあたっての代理人とのいざこざによるストレスのなりゆきもまた、日常の話題にまぎれて描かれている。この本の出版後、「ミセス・スティーブンス・・」が世に出たことにより、サートンは同性愛者のかどで、当時生活を支えていた大学の教職を追われることになる。信じられないことに、これは19世紀ではなく、1960年代、私が生まれたころとさして変わらない時代のアメリカの話なのだ。
アメリカに放浪しながら、最後まで根付くことをもとめず、イギリスの田舎で自ら死んでいったウルフとは対照的に、ヨーロッパの伝統を深く愛しながら、アメリカの荒野の小さな村に安住をもとめたサートン。文壇に拒否されても、飽くことなく庭をたがやし、家を整え、それらを自らの家族としてまぶしいまでの独立独歩を貫いた彼女が、どうしても欲しがったルーツ。
それは、彼女の両親のいた場所ではない。
彼女自身が切り拓いた、荒れ野でなくてはならなかった。
夢見つつ深く植えよ。
深く植えるのは、自分。
どこに植えるのか。。。場所を探したい。
少なくとも、私が納得できる、その約束の地を。
(メイ・サートン「夢見つつ深く植えよ」・1995年刊・みすず書房)
yumemitutu_fukaku
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