この本「島暮らしの記録」は、ある女性二人が無人島で自然と闘いながら暮らした二十数年間の記録。
こう書くと、なにやらロマンティックな発想があたまをよぎる。
けれど、実際に女性二人、トーベ・ヤンソンとトゥーリッキ・ティエピラを迎えたのは北欧の厳しい海と風。思うようにならない動物たちだった。
彼女らが暮らしたクルーブハルは、フィンランド湾の南に浮かぶ、全景ほんの数キロのごくごく小さな無人島。本の中にその全景の写真が収められているけれど、全景を撮った写真の中に写る二人の小屋がディテイルまではっきりと見える。つまり、本当に小さい。まるでおもちゃの島のよう。
この島のある近辺で幼い時代を過ごしたトーべと、その恋人トゥーリッキは、初老を迎えた1964年の春、クルーブハルに上陸し、小屋を建て始める。
二人では手に負えない部分は土地の男性二人に手を借りて、板と戦い、天気と戦い、波と戦いながらテントに暮らし、徐々に二人の住処をくみ上げて行く。おかしいのは、彼女らが決して聖人君子ではなく、始終失敗や手伝いの男性への文句、トーベの母が連れてきた猫のことで悪態をついたりするところ。
孤島に二人きりというと、なにかしら人間離れした仙人の生活を思わせるけれど、トーベとトゥーリッキにはそういったところはみじんもない。
厳しい生活は、天気が荒れると人里から完全に孤立する。
食料もごく質素で、今日はキャベツのスープ、明日は豆のスープ。取る魚は猫のためのもの、という具合で、芸術家としてそこそこ成功していたトーベとトゥーリッキとしては驚くほどにこざっぱりとしたもの。
読みながら、ムーミン展で見かけた若いトーベの、サロンの女王然としたクールでハンサムな横顔が思い浮かぶ。明るい金髪で、意思の強そうな鼻と彫りの深い顔立ち。北欧の人らしい色素の薄い、澄みわたった瞳に浮かぶ、愁いを帯びた表情。
あの彼女が、老いてこんな生活を望んだのか。。。と驚く。
嵐の後、腐臭のする水溜りから魚をすくって海に放す。甲斐なくそのまま息絶えるもの、勢いを得て海草にもぐるもの。
それを見つめるトーベの目には哀れみも感傷もなく、ただ淡々と命の営みを見送っている。
二人の小屋には、母の姿がときどき訪れる。
どんな風に三人がやりとりしていたのかやや不鮮明ではあるけれど、基本はトーベとトゥーリッキの二人暮し。
やがて母が亡くなって、春から秋の季節に訪れる人は減っていったのかもしれない。
この長い年月のわずかな記録の終わりちかく、印象的なシーンがある。
トーベとトゥーリッキは、長い時間を二人きりですごす間に、次第に会話がとぎれてゆく。
やがて、向かい合っていてもひとことも交わす言葉がなくなってゆき、そのことを愚痴っているのかと思えば、トーベはこう続ける。
誰かがふと、ふたりの小さな小屋を覗くと、ひとつのランプにむかいあって、二人の女性が腰掛け、黙ってただそれぞれの仕事に専念しているという心温まる風景を目にするのだ、と。
嵐の日は外に出てその自然の脅威を楽しみ、ボートが沈めば必死で引き上げ、互いが互いの命綱を握り合った無人島での生活。
老いに背中をおされるようにその生活にピリオドを打ったときの二人の、どこかさっぱりとした寂しさは、ムーミン谷の十一月でムーミン一家を待ちかね、次々と谷を後にして家へ帰っていった登場人物たちの「さびしそうだけれど、少しほっとした背中」と重なる。
それは、負けて逃げるのではなく、すべきことをまたはじめるための一歩であったように思える。
島を後にしたトーベとトゥーリッキは、次々と二人の合作のホームムービーをもとにした映画、小説、そして島暮らしの記録を編んでゆくのだ。
老いて後の、二人の船出のために準備を整えてゆくように。。
(トーベ・ヤンソン著、トゥーリッキ・ティエピラ画「島暮らしの記録」、筑摩書房、1999年刊)
tove_shimagurashi
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