先日朝会社に出るとき、通勤本にはなにがよいか迷って久しぶりに森茉莉を手に取ったのはなぜか。。。その前夜にヨルとの笙野をめぐる会話があったせいだと、ヨルの書き込み見て思い出した(笑)。
かくて本は、めぐりゆく。。。
森茉莉「記憶の絵」
本当は「絵」は旧字体?の難しいやつのようだけど、文字化けするといやなので。。
私は彼女のエッセイが大好きなんだけど、特に好きなのは「貧乏サヴァラン」とか「父の帽子」。
前者はいい大人の森茉莉が生活に苦心惨憺する話。といってもおそろしくユーモア感覚の発達した人なので、悲惨な状況もおかしくみえてくる。
後者は父である森鴎外をいかに自分が独り占めしていたかの自慢話。
馬鹿馬鹿しいほどのファザコンだけど、大真面目な文章がおかしくてたまらない。
ただいま読んでいる「記憶の絵」は上の二冊のテイストがうまく混じっているような具合。うち何篇かは重複しているかもしれない。
改めて読んで思うのは、本当にこの人は存在がまんま、鑑賞対象となりえる人だということ。彼女の書く文章は彼女の個性そのものとしかいえない空気が漂う。言葉を極度に、偏執的に愛している人なのだというのが文体ににじみ出ている。
父である森鴎外(簡略字(汗))が政府で旧仮名遣いをより簡単な新仮名遣いに改めることに議会で反対したというエピソードを誇らしげに語ったかとおもうと、同じ文章の中で「でも、新仮名も書くひとによっては美しいのだと発見した」等と無邪気に報告する。
この無邪気さが、彼女のある意味すべてのように思う。
装ったカマトトぶりではなくて、根っからの無邪気。
私が好きなのは、彼女のパリ(巴里)に関する記述。
レストランのボオイ、ソワレ、食べ物からなにからなにまで、巴里が一番。
比べての銀座を野暮な町として鼻息荒く切り捨てている。
確かに言われてみれば、銀座は巴里を模した風情があるかもしれない。
それにしても、巴里カブレ。
ミーハーも極めれば本物。
いや、森茉莉は似非物中の似非物とも思える。
贋作の世界にも天才と呼ばれる人間がいるように、森茉莉も似非の天才なのかもしれない。
鴎外という教科書に載ってしまう父を持って、いまやお札にまで顔が出ている。
その父を臆面もなく「恋人」と称して、亡くなるそのときまで昔の夢をむさぼった、森茉莉、ゆめまぼろしに囲まれ、霞を栄養に、グルマンを究めた最後の大物。
彼女には、義賊の匂いがする。
自分の考える「美」にまっしぐら。
そうして世間を味方につけられなくとも、つい世間が世話を焼かずにはいられなかった人の、強さが羨ましい、一般民の私です。
ああ。。。オムレット・ナチュール※が食べたい。。。
※普通のオムレツを森茉莉が称するとこうなる
mori_mari_kiokunoe
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