猫の具合が悪くなる前、悪い間、そして亡くなってから、ずっとメイ・サートンを読み続けている。
まず、『独り居の日記』を。
その中に、メイが飼っていたオウムのパンチの死が描かれている。
パンチが亡くなったとき、サートンが書いていた。
「パンチがいなくなった分の空気がどれほどのものだろう」
そう。。ほんの少し。ほんの僅かな空気なのだ。
けれど、その空気がどれほどに重いことか。
命あるものは、生まれ、成長し、やがて老いて死に絶える。
私たちの愛した猫は、生まれ、成長し、老いることなく死んだ。
私たちが彼を見守れたのは、成長してゆく時間、死ぬ瞬間。
堅くなった彼を灰にする時間。
灰になった彼を壷におさめる時間。
彼が生きて、死んだことを知っているのは、私たちと、少ない友人たち。
私たちの彼への愛は、私たちしか知らない。
一匹の猫が生まれ、死んでゆく。
その一匹が死を迎えるときは、全世界が変わる瞬間でもあったのだ。
けれど、世界が変わったことを知るのは、彼自身のみ。
私たちにさえ、その変化を知ることはできない。
どれほど知りたいと願っても。
死とはそういうこと。
命とはそういうこと。
私の猫は、私にそれほどに重い贈り物をくれた。
死と引き換えに。
『独り居の日記』」に続いて書かれた『海辺の家』でサートンは
「孤独にむかって生きることは、死にむかって生きること」
と書いている。
だから孤独に私が裏切られることは決してない、と。
それは否定的な人生ではない。
人が基本的に独りであること。
そしてそれを受け入れることこそ、人生を受け入れることなのだとサートンは重ねて語る。
花はつぼみを膨らませ、花弁を開き、良い香りを撒き散らしてやがてしおれ、散ってゆく。
だからこそ素晴らしい。
動物も同じ。
そこに命がこもっているからこそ、すばらしい。
命のこもらないもの、ただそこに置かれているもの、ただ死と無縁なものは、何にも裏切られず、何にも期待されない。
それこそ、まさに永遠の死なのではないか。。?
inochi_arumono
最近のコメント