ある本の解説を読んでいるとき、ふと引っかかった。
それを書いているのは人気のある作家だけれど、好みかめぐり合わせか私は読んだことがない。
解説の短い文章の印象では、硬質の言葉を好んで使うタイプのようだ。。。どこか本文を書いていた作家の文体を引きずる幻のような世界をいまだ漂いつつ、解説を読み進むうちに、私は突然読めなくなった。
唐突に「全然」という言葉に行き当たった。
私は全く知らない。
私は全然知らない。
この文章を並べただけでも、受ける印象の違いは歴然としている。
著者の作品の魅力を過不足ない修飾辞で彩りつつ、すらすらと語られる解説文中、この「全然」という文字だけが浮き上がっている。
そのために、解説全体が突然作りの荒い枠に思えてきて、落ち着かなくなった。
「全然」という言葉が悪いのか、と聞かれると「いや、そうじゃなくて」といいたくなる。漢字や言葉の出自にうとい私なので、この言葉がどういう種類のものなのかをはっきり指摘できない。
また、私の好きな作家たちがこういった柔らかめの言葉を使わないということも決してなく。。
何かといわれれば、文章全体に対してのバランスというべきか。。
ふと、この解説を書いた作家のこの文章は、借り物なのではないかという印象を持ったのだ。少々意地悪な見方をすれば、この人気作家は、ファンだという本文を書いた作家の文体に引きずられているのではと思ったりもする。
普段使い慣れない言葉を、本文の世界に浸りきって引きずられつつ繰り出すうちに、ふと地が出てしまったのではないか。
このページを埋めた文字の中でひとつだけ違った色の文字を見つけたとたん、私の中で解説は解説ではなくなってしまった。
辛うじて借り物の文体で本文に繋がっていた本全体が、たった一言の「地」からもろもろに崩れ、跡形もない。
これなら、最初から自分の文体で書けばいいのに。
いたずらに本文に世界を沿わせたりしないで、自分の世界で対抗してみればいいのに。
とつい、文章半ばで現実に引き戻された恨みで、ぼやいてしまう。
実はこれに似たことを、文芸評論で見たことがある。
といっても翻訳の評論だったから、その評論家が引きずられたのは正確には翻訳者の文章ということになるのだけれど、その訳文によく使われている「滋味深い」という言葉が評論の中にひっそり紛れていたのだ。
そのときの私は、「あ。」と思いはしたけれど、「同じ穴の狢」を見つけたような愉快な気分になっただけだった。
辛口で知られる評論家が見せた隙に、同じ作家を楽しむ同類のような仲間意識を持ったのかもしれない。
この評論家と、今回の作家は何が違うのかというと、似ているようで真逆のことをしている。
マネっこをした解説につい地が出たのと、自分の文章を書いていた評論に、つい好きな作家の文章が紛れ込んだのでは、圧倒的に前者のほうが恥ずかしい。前提が仮面だから、仮面が剥がれるのはしんどいはず。
仮面ではないのかもしれない。
これがこの作家の地なのかもしれない。
思いつつ、これまでめぐり合わせのなかった作家が、ますます遠のくのを感じる。
幻想から無理矢理引き戻された恨みは、深い。
zenzen
最近のコメント