最初に書いておくと、これは中山可穂(と一部ファン)の陰口です(汗)。
先日野×ら氏の悪口を散々書いたところ、ファンの方が検索で飛んでいらしたらしく・・・なにやら無用に不快な思いをさせたのではないかと不安になったので、とりあえず前置き。
この作家を、私は好きで好きで憎い。
好きというのは適切ではなく、執着に似たものを感じている・・・というほうが近いのかも。これはもはや、粘つく愛。一時はほとんどストーカー的情報収集をしていた(告白)。
何が私をそこまで狂わせるのか。
彼女が描く世界が、ありえないほどリアルな痛みを描いているから。
ただし、ただし、ここで大事なのは。
恋愛の密度が高く高く煮詰められ、恋愛の辛さは過度に誇張され、リアリティは強い力でゆがめられているということ。中山可穂的フィルターをもって。
その歪み加減が、ビアンならではの(この場合アタシならではの)経験した痛みや、苦しみ、甘美さと重なったり重ならなかったり。
では、素直に「好き」と言えばいいじゃないかと言われそうだけれど、そういえない、ついつい「憎い」と言ってしまいたくなるのは、その歪みさ加減にある。
どうゆがんでいるかというと、
「女同士の恋愛は不毛な恋愛である」
ということに彼女が「刹那」を見出しているから。その「刹那」は恋愛の刹那さというよりも、女同士であることの必然性を支えているから。
存在理由を否定することに小説を書く根拠を見出しているから。
(一部に違う作品もあるけれど、中核をなしている作品群はそうだと思う)
常に彼女の描く世界は「不可能」という言葉を核に回る重力に反した世界であり、決してすんなりと収まり良く座れる居心地の良い椅子ではない。
その不可能さが、世の「刹那」好きで、恋愛に退屈した男女をひきつけているのだろう。「中山可穂ファンです」と言う人々の中には、もうただただ盲目的に
「あの恋愛世界に憧れてます」
という人が多い気がする。いや、私が出会う人たちにそういう人が多いだけなのか。
あの恋愛世界に憧れる???
彼女の描くものに共感・共振してしまう自分をもてあますことがあっても、憧れを抱くことはまずない私としては、違和感を持たずにはいられない。
ただ違和感もってもそういう「感想」を誰かが持つのはまったくもって自由。だから、私はただ「違うなあ」と思っているだけで良いはず。
そのはずなんだけど、そういう「不可能ばかりの世界」を憧れと陶酔をもって見つめる人々の中には、「レズビアンに憧れる人」がいて、そういう人はモロこちらに幻想を投げつけてくる。
女同士は不毛な愛で、この世では禁じられており、死ぬことでしか結ばれない。
ネットの掲示板等で知り合った中山可穂ファンとやりとりしていて、そんな幻想を持った人を蹴飛ばしたくなったことは、一度や二度や十度や百度では足りません。いや、百度あれば足りるかな。
そんなこんなで、「中山可穂好きです」という人にはまず警戒センサーがぴぴぴと鳴るようになってしまった。
中山可穂は自分のトラウマと痛みを表現する作家であるとともに、私が憎む妄想レズビアンファンなみなさまをポコポコと生み出している作家と捉えている現在、私にとって彼女は「好き」で「憎い」作家となってしまう。やっぱりファンとしては邪道なんでしょーね・・・好きで好きで、感想書くとほとんど詩みたいになっちゃうような人のほうが本道ファンなんでしょうね(恨)。
こんな私はほんと、中山可穂ファンの友人できません(あたりまえか)。
どなたか、私と中山可穂について語ってみませんか・・・ただし、「私のトラウマと不毛の愛」ってなテーマはナシで・・・・(没)
noroi
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