私、ガールズラブに萌えられません。といきなし告白。
百合姉妹とか買ってみましたが、マリ見ても読んでみましたが、なぜか萌えられない。
宝塚も好きだし、おねえさま系話題大好きなのに、昨今ブームのガールズラブにはめっきり食指が動かない。
やおい・ボーイズラブに混じって百合小説が書店に並んでいるのを見たときは感激(?)したのに。実物には×。なぜなのかしらん。
とりあえず読んだ範囲で考えてみると、ガールズラブのほとんどは「淡い初恋」に終わってるのよね。
絶対sexなんてしないし、「禁断」とか、「オンナノコがいちゃいちゃ」とかにポイントがあって、結局男のオカズの延長でしかない。購買層は明らかに少女・元少女なんだけど、この購買層のほとんどが、結局「擬似ビアン」と、「擬似」しか世間では許されないという刷り込みを受けた隠れビアンから脱却できてない。あるいは、当事者以外のオカズ用だったりして。
じゃあ真性(ぐえ)あるいは自覚ビアンはこの手を楽しめないのかというとそうでもないとは思う。また、ビアン・バイではない人がこの手のファンタジーを持つこともあるだろうし。誰でもファンタジーを抱く。私の場合、「おねえさま」の先にははっきりと「恋愛」があって、そういう形がおぼろげながら見えるようなものにしか逆にファンタジーを持てないということなのかも。
嶽本野ばらが、吉屋信子コレクションのあとがきで、「エス」とレズビアンを区別したことの勘違いさがそのあたりのポイントのように思う。
吉屋の「エス」は恋愛と区別されるものではない。
あれを区別してしまったら、吉屋と千代の一生も「ままごと」となってしまうということに嶽本野ばらが気づかないことに驚愕する。かりにも監修するくらいなら、いくつか出ている伝記は読んだであろうに・・。
いっぽう、「ガールズラブ」と「レズビアン」は幻想と現実のアワイでかなり明確に区別できると思う。理由は上に書いたとおり。まずは「禁断」で「脈絡のないごっこ遊び」であることが重要な要素ととられるから。現実なんかが割り込んではいかんのよ。
(くれぐれも言うけど、「ガールズラブ」を楽しむヘテロがいてもいいっていうのは大前提ざんす。ファンタジーにホモヘテロは無関係と思ってます)
というわけで、私の中では
女性同士の恋愛>エス>ガールズラブ
だけど、
女性同士の恋愛≠ガールズラブ
となっていてややこしい。
ガールズラブはエスの一部が変形したようなものと考える。
ところで、前記の嶽本野ばらは吉屋本の解説の中でさんざん吉屋の書く「エス」と昨今のガールズラブあるいは少女小説との間に大きな落差があると書いていた。
にもかかわらず、にもかかわらず!!!その翌月に出た「百合姉妹」に堂々とエッセイ載せてるあたり、物書きとしてどうよ???ちっとは自分の文章に責任もたんかい!!!と怒りを感じる私でした。
というわけで、ビアンと嶽本野ばらは相性が悪い・・・のか?
いや、野ばら好きな人の反論は・・・・もとめて・・・・ない・・・・(小声)
girlslove_yoshiya_nobara
最近のコメント