うぉーん。読んでしまった。
感想書くのがためらわれる・・・・もじもじ。
あ。思い切りネタばれしていますので、これから読む方は要注意です。
一篇については書かないでおこう・・・もう一篇。こいつが本編の「ミシン」。
まず出だしで大きく躓く。
「屋根裏の二処女」の解説が、ミシンの一部の焼きなおしだったことを今更知ってしまった・・・自分の小説のファンが吉屋信子の解説を読んで「あ。ミシンだ」と思って喜んでくれると思ってなのか・・・それとも単に手を抜いたのか???あの解説のエッセンスは「吉屋信子=エス≠レズビアン」というところにあったのに、それについてはすでにミシンで全部かかれているなんて・・・・ぬおおお。
冷静に、冷静に。本編について書かねば。
なんというか、ものすごーーーく納得したのは、彼がなりたいものがこの一作で実に明確に見えること。
彼は本気で、本気で、平成の中原淳一になりたかったのね。
そして、それはおそらくもっとも彼にとって選びやすい道だと思う。
中原淳一は、戦争直後、なにもない時代の少女たちに「乙女」であることの夢を与えたいっぽうで、猛烈な男尊女卑の行動がが死後妻や息子たちによって暴露された矛盾の人。彼が与える「乙女」の雛型は完全に「淳一が望む恋人たる少女の肖像」そのものであり、けして彼が普段あごで使い、結婚生活の横で仕事をすることに対しても「女のくせに」と虐げ、病床に臥してもそばに近寄らせない妻の姿ではなかった。
つまり、彼が頭に描いた理想の女性が彼の描いた「それいゆ」の乙女たちであり、その夢の少女たちを生み出した中原淳一こそ、「中原淳一の描く乙女」の文字通りの「産みの親」であり、他のなんびとたりとも、彼と彼の描く乙女たちの間に水を差すことは不可能だったと思う。
いっぽうのノバラ氏が目指していたのは、おそらく氏が夢見る乙女たちを、同じように夢見て求めてくれる少女たち、だったのだろうと思う。
それは、ミシンで主人公がミシンを殺してしまうという設定からも読み取れる。
これは、中原淳一が中原淳一でなければならない理由をもっていた(彼のイラストと天才的な時代を読む視点)のに対して、おそらく彼のコピーとして存在するノバラ氏には乙女の教祖たる根拠が薄いゆえとも思える。
ノバラ氏の乙女は決して生き抜いて(精神的に)大人になってはいけない。
それが、(ノバラ氏が考える)平成の乙女の姿であり、中原淳一が大人の女性も描いたのとは一線を画している。
中原の乙女は年齢を超えて乙女でありつづけるけれど、ノバラの乙女は大人になる前に死なねばならない。
私が一番抵抗を感じるのは、その部分。
愛する人と同化したいという思いの一部は私も覚えがある。
けれど、恋人(愛する人)との同化は死によってのみ達せられるというのがミシン(あるいは同時収録の「世界の終わりという名の雑貨店」)での結論なのは、やはり断固として成長を拒否するからなのか・・・。
「ミシン」はタケモトノバラ版の乙女カタログ。
でも、間違えてはならないのは、これはある作家の、ある男性の描いた、理想の女性像であって、決してそれが「この世の基準」ではない。
本は「虚構」だから現実とは違う、なんて分別臭いことを言うつもりはない。
だって、それは違うから。本には多分に真実が含まれることを、本読みの一人として感じているから。
なのに、他人の作品の書評というもっとも客観性を重視すべき場で自分の作品の一部を流用したノバラ氏は、どうしても「虚構」と「虚像」をごっちゃにしているように思えてならない。なんだかノバラ氏は自分の読者の乙女たちに対して「唯一絶対の神」であろうとしているように見えてしまうの。。
「虚像」は、ノバラ氏自身がわが脳みそに作り上げて後生大事にもっている幻。
それを、乙女たちに押し付けるのだけは、カンベンして欲しいんだけれど・・・・。
この後読み進むべきか、これでやめておくべきか・・・・迷っております。
せめてミシン2くらいは読んでおくべきかな。。
missin_takemoto
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