愛読書メイ・サートンの「ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く」(愛読書なのに毎回日本語のタイトルが分からなくなる)。
この作品について、メイは
「セックス狂でも酔っぱらいでも麻薬常用者でもない(中略)ふつうの同性愛者を、感傷を交えずに描くのは難しかった」
と「独り居の日記」で書いている。
セクシュアルマイノリティが普通の人間であることは、マジョリティには受け入れがたいことがあるらしい。
カムアウトという非日常的な行為を経ないと存在さえ認識してもらえないためなのか。
古い友人に時間を経た後で恋人が女性であることをカムアウトすることがあると、かなりの確率で言われることば。
「そうかー。そういえば瑠璃って独特な感じしてたもんね」
同性愛者(だから違うってば)は、「独特」でなければならないのか。
じゃあ自分はどうかというと、例えばテレビで見る芸能人に対して、
「この人、ゲイだと思うーーー」
なんて結構普段から言ってる。つまり、私もまた芸能人の「におい」を区別して「同性愛者」だと分けて考えているということらしい。
それは私としてはネガティブな評価よりも、ポジティブな要素(私にとって)が多い。
例えば男性の場合、女性に対して「女だから」と決め付けない態度とか、マッチョさを強調しない仕草とか。結婚だ家族だと形式を印籠のように振り回さないとか。
(実際にはジェンダー分けがひじょーに激しい同性愛者も多いことは認識してますが)
ふむ。そう考えれば、私が周囲から言われる「独特」の言葉もあながちそれなりに「評価」されているということなのか。と、好意的に考えてみる。評価なんてしたくもされたくもないと強がりたい気持ちもないではないけど。
それでもね。
セクシュアリティが個性の一つとなりえるのは、まだ早いだろうと思うのよ。
今の会社ではやっぱり私の指輪(恋人からの贈り物)を見て、「扶養家族はいませんか?」と会計士に年度末しつこく聞かれたりするし、社長夫人には「なぜ結婚しないの?」とかずばり聞かれたりもする。はるか昔に同じ質問を職場の先輩に受けて、「なぜ結婚なさったので?」と返したら、以降ものすごく風当たりが強くなって懲りた。
カムアウトした職場の社員旅行に当時の恋人と二人で参加。行き先のハワイで同僚に
「さっきゲイビーチに行っちゃった。なんだかすごかったのよー」
とヒソヒソ声で言われて目を白黒。何がすごかったのかを聞きそびれて悔しいけれど、ヒソヒソ声のほうがずっと恥ずかしかった。
ごくごくナチュラルに、
「私のミューズは彼女です」
て言えればね。言って、それをごく自然に受け止めてもらえる環境を、自分で作っていくしかないのよね。
メイ・サートンの時代と比べれば、格段に理解は深まっているはず・・という慰めは、とりあえず明治でストップモーションしているようなおっさんたちには通用しない・・のであった。そうね・・・・・・・・・この職場では無理だわ。(元に戻る)
mrs_stevens_naritai
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