ターシャ・テューダーの名前を初めて目にしたのは、十年近く前、翻訳者の相原真理子氏が翻訳の雑誌で彼女が新たに紹介しようとしている本についてのインタビューを読んだときだった。
アメリカはバーモント州で広大な土地を耕し、草木を植えて育て、動物を飼い、自分で食べるものを自分で創り出してゆく生活をしている女性の絵本作家がいる。彼女の暮らしを写真とともに紹介する本だった。
相原氏は当時からパトリシア・コーンウェルのヒット作「検死官ケイ・スカーペッタシリーズ」の翻訳を手がけていて、文芸翻訳家にしては珍しく安定した収入と仕事を抱えた売れっ子翻訳家。翻訳家が本を持ち込んでそれが企画として大手出版社で通ることなどめったにない中、彼女が持ち込んだ「ターシャ・テューダー」の生活を紹介する本は、スローライフの流行初めの時代を敏感に先取り、大ヒットとなって様々な本が次々と翻訳された。
あれから十年。
ターシャ・テューダーの暮らしぶりはスローライフのお手本のように見られ、田舎暮らしに憧れる日本の週末ガーデナーたちの憧れのまととなっている。
今日NHKで彼女の暮らしぶりを映像に納めたドキュメンタリーが放映されると知って、楽しみにビデオに録画して見た。
バーモント州は年の半分は雪に埋もれる寒い気候。
寒暖の激しい土地で、色鮮やかな花や草木が季節ごとに美しい姿をカメラに見せてくれている。初夏はけぶるような花々が色を競って広大な庭をうめつくし、真夏には花々の間を舞う蝶のように一日中庭をあちらへこちらへ見て回りながら手入れする。秋深まると実を結んだ林檎を収穫してジュースを絞り、蜜蝋で一年分のろうそくを作り、来年の春を思いながら球根を埋める。冬は雪の絨毯。閉じ込められて暖炉の前で絵を描き、訪れる家族のために料理をする。その季節ごとに決してかわらない午後のお茶の習慣。
これだけの「ごく当たり前」を支えるために、彼女は日々を捧げているのだ。
花は一日で開かないし、林檎は一日で赤く熟れはしない。
球根は冬の間中雪のしたで準備をしているのだし、夏の雑草を選り抜いたおかげで、翌春に勿忘草の群生を見ることができる。
ターシャは、週末ガーデナーが憧れるなんてとんでもない「庭の専門家」なのだ。
90歳になった彼女は、背中をわずかに丸め、彼女が知り尽くした広い庭をゆったりした無駄の無い動きで歩き回る。枯れた花を摘み取り、雑草を選り分け、水遣りの必要な箇所を見極め、剪定の必要な立ち木に鋏を入れる。
見ごろの花を好きなだけ摘み、育ちすぎた枝を切って挿し木とする。
彼女は何一つ無駄にしない。彼女の仕事はすべて長きにわたる経験から積まれてできたもので、すべてが過去の経験から未来の庭へと繋がる。
四季を過ごし、四季の与えてくれる恵みを精一杯楽しみ、次の四季のために備えて暮らす。
正直にいえば、ターシャ・テューダーに対して、その著書をいくつか読んでいたにもかかわらず、ひとつの偏見を持っていた。
電気もあり水道もある時代に、無理矢理不便さを求めて暮らす変人、あるいは趣味人、と。
それはどこか、日本のあやしいスローライフブームに対する警戒心のようなものもあるかもしれない。そして、ドキュメンタリーについても楽しみにしながらも、テレビとは無縁の生活を送っているはずのターシャを最新鋭のカメラがとらえ、記録するということにどこか微妙なずれを感じて不安でもあった。
彼女の庭に腰掛け、彼女が庭を歩き、花をつみ、水をやり、やがて葉が落ちて雪に覆われてしまう。雪が解けた下からスノードロップがつぼみを膨らませる中、それらひとつひとつに小さく喜びを弾けさせながら暮らしているターシャは、彼女の過去から未来への橋渡し人に見える。90歳の彼女が生きて動いて感動して微笑んで、それを克明に追ったカメラは、もしかして動画にしかなしえないものを作り上げたのかもしれないとも思った。
19世紀の暮らしを守り続けている人、というイメージ。そのイメージが、あるいは「19世紀」は単なる記号にすぎず、「ターシャ・テューダーという人」の過ごしたい時間を過ごしたいように生きる人生が、たまたま今の彼女の暮らしであったのではないかという疑問へと変化してゆく。
あくまで沢山ある現代人の暮らしのチョイスの一つとしての「ターシャ・テューダーの暮らし」は、ずっと私には馴染みやすい考えと思える。
一羽の小さなチキンを四時間かけて暖炉の火で焼き上げ、それを家族四人とコーギーで分け合って食べる。物好き、変人、そんな言葉があるいはぴったりくる人かもしれないけれど、彼女の生き方は今日明日で変化してしまうような極端なものではなく、芯から彼女が望んだ生き方だからこそ、こんなにも利便性を追求する現代にあってなお、その暮らしをそのまま守り続けているにちがいない。
彼女は紛れも無い現代人であり、時間を超えた人であり、選ぶ自由と知恵をもった人である。
彼女は自分の年を自覚している。
だから、自分亡き後の庭を託す相手をすでに見極めている。
それは、自然。
自然に、庭を返すのだと。
そのための準備を少しずつ、始めている。
自らの生き方を選び取った人だからこそ、その生き方を次世代へ押し付けることはしない。
ただ、知恵は惜しまず授ける。つまり、彼女の生き方をただ、実践するいっぽうで、彼女の財産は押し付けない。ひとの知恵のほうが、出来上がった庭よりも大事と思うからこその執着のなさ。
彼女が亡くなれば、子供たちはそれぞれの生活へ散らばり、その庭は自然へと還ってゆく。
自然の意思のまま、彼女の手を少しずつ、少しずつ、離れてゆく。
雑草は絡み合い、菫ははびこり、やがてクラブツリーの実は、鳥たちだけのご馳走になってゆく。
そうしてターシャの庭がバーモントの自然へと溶けて消えるとき、あるいは、彼女の思い描いた本当の楽園が出来上がるのかもしれない。
tasha_tudor_rakuen
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