大好きな劇団ク・ナウカの阿部一徳氏のワークショップに参加してきた。
あの私にとって異世界幻想の源たる舞台に声を響かせる阿部サンと同じ空気を吸ってなにかしらの教えを得られるなんぞこのゴミダメの町にいるときでなくては出来ないことだから、是が非にでもと申し込みました。ええ。
たったの二千円で十五人前後の少人数、四時間みっちり身体を動かし、声を出す。おお、贅沢な時間。
そのテーマは「感覚を開く」ということ。
ゲームに熱中したり、ネットにはまったり、満員電車でイヤホンの音楽に逃げ込んだり、というのは閉じられた感覚の最たるものらしい。私はゲームも電車の音楽もないけれど、本の世界に完全に逃げ込むことはままある。この「逃げ込む」感覚は、本に没頭するのとは明らかに違う部分がある。はっと我に帰ることがないのだ。読み終わっても延々その世界にぐずぐずと居残る感覚が残る。
で、開かれた感覚というのはものすごく貪欲であることと繋がる気がした。
阿部氏曰く、このあらゆるチャンネルを開いてどんな周囲のことがらも逃すまいと開ききった役者が舞台にいると、それだけで人々は飽きずにその舞台に集中するのだと。
舞台の上で相手とキャッチボールする。
そのキャッチボールができない役者は閉じている。
ただ、自分の台詞をしゃべってタイミングをはかっているだけ。
ただし、日常から感覚を四方八方に開ききった生活は不可能に近い。
そんなふうにして過ごしていたら人は他人の感情やなにやらすべて間に受けてすっかり疲弊してしまうから、自然と人々は日常生活の中で感覚を閉じている。
今日のワークショップは、その日常の中で閉じられた感覚、体をいかにして開いてゆくかという作業を段階を追って行っていった。
瞳を閉じた状態の中でどれだけの情報を受け取りながら歩いてゆくことができるか。
周囲の人の声量を確認しながら、自分の声を響かせてどんどんと頂点を目指してゆく。そうしてまた、閉じてゆく。
頭の中のイメージを膨らませ、膨らみきったところで声と体で爆発させる。
締め切ったスタジオで大声あげて飛び跳ねるなんて非日常もいいところだから出来るといえば出来るのだけれど、枯れるほどに声を出すなんて、まずないから、結構すっきりする。身体を動かすのは苦手中の苦手だけれど、声と一緒ならわりと動かせるものなのだな。
正直言って四時間で体と心を開ききるというのは普段の訓練をつんでいない人間にとっては無理だけれど、一つ身にしみてわかったのはいかに普段から私が閉じきっているかということ。
声を出そうが身体を動かそうが、一度に集中できるのはせいぜい耳か目か鼻か、それらのうちの一つだけなのだ。たった一つに集中するだけであとは自意識過剰に周囲に自分がどう見えているかが気になる。。これは「開く」という行為からはほど遠い感覚なのだろうなと。。
こんなネガティブなことを感じ取ってしまうなんて。。。といわれそうだけれど、「私は閉じている」なんてことは、普段の生活の中ではほとんど意識していないし、カタツムリの殻みたいに閉じこもった状態でもそれで充分と思っている自分の「鈍感さ」に気づくことは、ものすごく貴重な経験だった。
それにしても、自分のチャンネルがあれほどたくさんあるものだということを、一つ一つ意識的にワークアウトすることで初めて認識した。それぞれのチャンネルをすべて全開にしての舞台というのは、丸裸で歩くのと同じくらいに傷つきやすいし、なんとも心もとない。そんな作業を延々続けている役者というのはなんと因果な商売だろう。。いや、実際には本当にチャンネル全開で舞台に立てる人というのはごく一握りなのかもしれないけれど。。
ふと、イエーツの言葉が頭を過る。
「裸で歩くことにはより多くの冒険心がある」
斜に構えたり、飾ったりすることはとても簡単だけれど、本当に勇気あるのは裸ん坊のままで真正面から人と対峙することだろう。
そういえば、ひとつ聞きたかったのに忘れてしまったこと。
「集中」と「閉じていること」との間にはどのような違いがあるのか。
今度質問してみようかな。。
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