須賀敦子全集の2巻を先日買ってきて、読んでいる。
まずは単行本未収録のエッセイからと後ろをめくって読み始めた。
須賀敦子がまだ若いころ、まだ夫を失って間もない頃の文章が混じっているのに驚き、ふと考える。
時は1960年代終わり。名もない一翻訳者。異国に暮らす四十代の女性。たったひとり彼女とその異文化をつないでくれる存在であった夫は一年前に亡くなり、後ろ盾もないまま、その異国で暮らしてゆくことを選んだ彼女。そこまで彼女を引きとめたイタリアという国。そこまで孤独を畏れつつも愛した彼女。
このころの須賀敦子には、現在のような知名度はない。
本当に一翻訳者。一キリスト教徒、一異邦人でしかないはずなのだ。
その彼女がイタリアという国に独りで留まり、暮らしを立て直すのを友人たちに見守られながら暮らしている。
なんと強い意志、なんと強い独立心と、好奇心と、そして想像力。
彼女が1978年に書いたエッセイの中で、ロジェ・シュッツというプロテスタントの修道士の言葉がある。
「孤独を愛しなさい。だが、
孤立することを忌み嫌いなさい」
ロジェ・シュッツ「テェゼの共同体の規則」より
この人の築いた共同体についての話がこのエッセイには書かれている。フランス・ブルゴーニュの小さな村で、祈り、ひたすら祈っては話し合い、そしてまた祈る。そういう生活について、そしてその生活が一方でひたすら行動するキリスト教徒と表裏一体となって存在することの意義を須賀敦子は語っている。
行動することと沈思黙考すること、そしてそれを人と語らうことは、実は離れがたい強さで結びついている。
祈るときは祈ることそれだけを、奉仕するときは奉仕することそれだけを、人と語らうときは目の前の人と自分の中を流れるものを、その一瞬一瞬に心を注ぎ砕くことが、人生を磨き上げ、得がたい輝きへと実りをみせてゆく。
テェゼの村ではともに祈るといっても何か形式があるのではなく、それぞれが自ら選んだ形で、好きなように祈りを捧げている。選んで孤独である人々。
私が望んでいるのは孤独ではなく、孤立なのではないかと、ぎくっとしてしまう。
誰といても感じる違和感は、おそらくは独りでいるときにこそ解決すべきことだろう。
独りでいる時間。沈思黙考し、祈る時間にこそ他者との関係性は作られる。
行動する時間と祈る時間が背中あわせにぴったりと結びついていることは、その事実を教えてくれているように思えてならない。
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