ク・ナウカの公演「奥州安達原」をNHK芸術劇場で舞台中継していた。
最初から最後まで見ていて、強烈な違和感は、あの台詞(宮城總創作の東北の昔の言葉)に現代日本語の字幕がついている。ありえないなあとがっかりしながら見ていたら、気付いたのはテレビゆえのカメラによる画面のカット。
そうか。舞台全体を肌で感じ取ることができない、東北弁、京言葉に関係なく台詞を言うスピーカーたちの気迫がカメラで切り取られ半減しているから、字幕の助けが必要になってしまうのだ。確かに画面だけを追っていたら、とにもかくにも分からないことにイライラしてしまうだろう。
舞台を見たとき、台詞のほとんどが分からないという前代未聞の事態に戸惑いつつも、その分からなさを別の言語(身体表現?と空気)で感じ取ることに注力し、その楽しさにわくわくした。そのわくわく感は、テレビでも言葉のリズムを感じ取れる瞬間にあったけれど、舞台のときの7割減という感じ。ああやっぱりク・ナウカは生の舞台だ、舞台である必要がある劇団だったのだと実感。
舞台前後のインタビューで宮城總が話していた中に、男の枠によって作られた社会という言葉があった。ある枠とある枠を対立させて、たがいが生き延びるためにその対立を継続させるという形。それに対するカウンターカルチャーではなく、ただはみ出てしまう存在としての女達、あるいは都の文化の枠からはるか離れた東北の異文化を、確かに私は芝居の中で感じた。
コミュニティに参加している人たちが、「字幕があって嬉しい」「初めて理解できた」と喜んでいる。正直にいって、私にはその人たちの気持ちが理解できない。だって、字幕というテキストだけに理解を頼ることが重要なら、なぜ生の舞台を見るのだろう?テキストは重要だけれど、少なくとも舞台の上のテキストは書き文字ではなく、役者から発せられる音と振動を感じ取ることで理解したい。戯曲を読むことは楽しいけれど、戯曲は舞台のために存在するものであって、舞台を見ながら戯曲を読むことは、意味を為さない。
あの舞台がク・ナウカのベストであったとはいえないかもしれないけれど、私にはあの耳障りの悪い理解できない言語は、痛快なリズムと、程よい異質さをもって役者の身体を通じて私に伝えられた。取りこぼした異文化を、分かりやすく噛み砕き、原型をとどめないまでの流動食のようにして管で喉から流し込まれることは、私には不快としかいいようがない。取りこぼしたものは、噛み砕けなかった異物感とともに、どこまでも私の中に留まり続ける。だからこそ、私はことあるごとにその異物につきあたり、「理解できなかった」ことを考え続けることができるのだ。
芝居に正しい観方はない。芸術に正しい観方はない。だから私の観方が正しい、とは思わない。異文化を理解できないゆえに否定する文化もまた、ひとつの文化の在り方かもしれない。そしてそのグルグルの中に、私自身も間違いなく取り込まれている。この輪をなんとかできないものか。できないから、私はまた立ち上がって歩きつづけることになるのか。また回る、回る、回る。回って先には谷底、あるいは安達原。
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