32人が殺された銃の乱射事件に衝撃を受けた自分が、その後のイラクの自爆テロの200人殺戮のニュースに大したショックを受けていないことに、ひっかかりを感じる。
人数云々よりも事件の性質なのだといわれると、では戦闘というのは悲劇ではなくただの状態なのかとまた疑問が湧く。自爆テロという言葉をあまりに目にしすぎたために、私にとってその悲惨さは見慣れた文字のうしろに擦り切れて霞んで、今は見ることさえできない。それは私の中で戦闘が日常化したのではなく、戦闘という情報が情報の意味を成さなくなっているということだ。地球のあちら側で人が大量に殺されている情報が、この生活の中でただのBGMになってしまうということだ。
(裏がどうかはともかく)少なくともテロと殺人は法的には許されていないこの国の保護のもとにあって、飛び込んでくる断片的な殺戮のニュースは、私の日常にピンポイントの打撃を与える。本を読んで、絵を見て、芸術に触れて揺すぶられるこの日本の東京の片隅に息づく小さな心が、銃を構え、あるいは自ら爆弾と化する彼女ら彼らに何の共時性も感じないことに、強烈な無力感をおぼえる。いや、つながっている、つながっているはずなのだ。グローバリゼーションという言葉が意味も無く垂れ流されているけれど、本当に地球がつながってすべての人々に情報が共有されているとしたら、こんなにも痛い、苦しいことはない。地球上のあらゆる地域のあらゆる人々の情報が届くということは、すなわちネガティブな気だってもろに食らうことになる。情報の取捨選択なんて、情報を得た時点で矛盾を孕んだ行為なのだ。知ってしまったことは、知らないことになんてできないというのに。
恋人と食事をしながら、こういう事件に際して感じる無力感の話をした。芸術はこういう事件に対してなにができるのかと問うたら、恋人が考えながら答えた中で、「伝えること」という言葉があった。
伝えること。
情報を情報という生の形で伝えるのがマスコミの言うグローバリゼーションならば、芸術にとってのグローバリゼーションはその情報がただ風化されることのない形にまで純化して、あるいは自身をその中に投じて、伝える、すなわち確実に受け手の心の奥にまで届けるための努力をすること、言葉を発することが重要になるのかもしれない。今こうして書きながらふと彼女の言葉を思い出して、気付いた。
破壊的なニュースに頭の中をビートされて放心した後。
いつもの好きな小説を読むとき、心をかき乱す写真集を見るとき、絵を眺めるとき、手を動かしているとき、私の全身は殺戮を繰り返す私の遠い友人たちにつながっている。声もなく殺される人々に、つながっている。そのつながりを意識しながら日常を過ごすことはできない。それは、遠回りの自殺行為だ。それでも私が瑣末な日常に忙殺されている瞬間、あるいはもっとも濃厚な芸術的喜びを味わっているその時に、私のすべては彼ら彼女らと同じ時間を生きている、というまぎれもない事実。そのことを、ここに記す。
耳を塞いで、目を閉じて、独りに、完全なる独りに篭ることは不可能なこの世の中で、けれど心の中の孤独をせめて守りたい。ねがわくば、私につながるその人々にも、どうかその心の孤独を守る自由をもてるようにと願うことくらいしか、今の私にはできない。
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