須賀敦子全集の書簡編を読んでいる。
ヨーロッパ各地の滞在先から両親・姉妹・恋人へ書き綴った書簡集のまだほんのさわりの部分。
書簡に息づく須賀敦子は限りなく自由奔放で、堅物で、身勝手で、活発で、饒舌な女性だ。それは彼女が残した多くの本の陰に隠れた、素の姿。
どちらも須賀敦子なのに、この違いはどうだろう。
むむむと考えて、晩御飯のとんかつを食べ、他愛も無い日常会話の中で恋人と話す。書簡の須賀敦子と、書籍の須賀敦子の違いについて。恋人の説は「脳味噌が違うんじゃない?」。そういえば恋人の「書く」文章と、「喋る」文章はまったく違う。右脳からそのままキーボードまで一直線のような私とは違って。
幼い頃「大人としゃべってるみたいだ」と言われたほどのおしゃべりだった私にとって文章は、言葉は、あまりにも親和度が高すぎて、口から出る言葉と頭の中と、手の整理ができない。ぐしゃっと口のあたりで丸まって、最近はおしゃべりが苦手になった。
言葉は苦手。素が出すぎる。こういう私はモノ書きには向いていない。切実さに欠ける。キーボードを踊るように叩くときと違って、ノロノロと手を動かしていると、どうしても形にならないことが、逆に安心なこともある。時間をかけられることが、今の私には合っているようで。
須賀敦子のイギリスこきおろしが可笑しくて、まだ本の最初だというのに繰り返し読んでしまう。表現者の横顔は、横顔だから、楽しい。泥臭い横顔があるからこそ、洗練されたときの作家の文章があれほどに美しいのだろうと思う。
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