ペヨトル工房についてはなんとなく知ってはいて、夜想が休刊になった後に解散のニュースも聞いた。サイトもちらほらと見ていた。
けれど、この今野裕一という編集者についてはなぜかノーマークだった。
二年以上前の夜想のドール特集の編集後記を読んだときに、あれ、と思った。
これは、私がこの数年抱いていた違和感にとても近い気がする。
すこし長いけれど、引用してみる。
「(....)見えているものと実態とは信じ難いほどの遊離を見せている。たとえば何故、球体関節人形かという設問に対して、身体がばらばらになる/ばらばらにしたいという欲望の顕れであるという精神分析医の答えは、ある種、この国を覆っている病の分析でしかなく、それは人形作家たちには関係のない感覚である。(....)
人形を作る側の感覚や必然と、それを受け止める観客の側の感覚は、相反すると言っていいほどの離反を見せている。人形に身体のばらばら性を望むのは見る側であって作家たちではない。この複雑な時代に、論考はあまりにアバウトな設定でなされている。なぜ球体関節を使うのかという作家への質問と、見る人たちはなぜ球体関節人形がすきなのかという設問はまったく別次元のものなのだ。
デジタルメディアも紙メディアも引用に引用を重ねて、言葉やイメージを軽快なものに変質させていく。紙がどれだけの実態を伝えられるかという根源的な問題以前に、メディアの作法が実態から遠い虚像を生み出し続けているという現実がある。(....)」
私もまた、ここにこうして日記で今野氏の文章を引用し、そこにある意味を軽快なものにしてしまおうとしている。あるものの印象を受け入れやすい形に変化させる。そのこと自体は大衆化の必要性から行為としてアリなのかもしれない。けれど、あえてもともとあったままのごつく理解しがたいもの、あるいは目を背けたいような表現もあるがままに、するりと通してしまうような媒体があっていいのではないか。いや、そのほうが私は少なくとも信頼できる。
実際、夜想のドール特集はただただ作家の作品たる人形の写真を載せる、あるいは当人のインタビュー、それも誘導系の質問の一切無い、とても平板でどうかするとぎょっとするほど淡々とした冷たささえ漂う冷静な質問の数々。あちこちの雑誌でみかける押し付けや、雑誌全体から漂う「方向性」という個を捻じ曲げてしまう悪意さえ漂う仕掛けがまったくない。逆にいうなら、この特集がどういう意図のもとに作られたのかさえ、分からないような、読者にすべてをゆだねるつくり。サイトの日記を読むと、なにを伝えたかったのかは明らかなのに、インタビューの中で核となる話題に触れていてさえ、企画側の誘導は行われていない。なんとも不可思議なほどの公平さ。
珍しくマスコミで、信頼できるかもしれない人を発見した思い。もう少し彼の活動について調べてみようと思う。
最近見て強くゆすぶられた三浦悦子の人形展の企画者だからというのも大いにある。サイトの日記?を覗いたら、企画展示のできあがってゆく過程を伝える不鮮明な写真は、表現という意図をもった芸術写真と違い、ただ透過させるガラスのような役目しかない。むろんガラスも光を曲げてしまうのは同じだけれど。
夜想のeditor's talk
http://www.yaso-peyotl.com/index_15.html
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