恋人が昔つきあっていたAさんが、恋人に向かって言った言葉。
「あなたがレズビアンだと認めるわけにはいかない。認めれば、私もレズビアンだということになってしまうから」
私にはAさんの言葉は恋人にとってあまりに残酷に思える。
性自認(私がなにものか)と、性指向性(私が好きになるのはなにものか)は似ているようで周囲の認識は大きく違う。もし彼女が、
「あなたが女だと認めることはできない。認めれば私も同性愛者ということになってしまうから」
といったとしたらどうだろう。ものすごく奇妙な響きを含んでくる。多くの人が思うだろう。でもヨルが自分を女と思っているのは事実だ、と。
なぜ性自認については黙認できて、性指向性については黙認できないのだろう。それは一般的に性自認が自明のことだと思われていることに起因するように思う。Aさんにとって、Aさん自身は女性でヨルも女性。それはわかりきったことで動かしようもない。そして一方でAさんはヨル自身がレズビアンであると認識することを認めることができない。けれどそれは、太陽に西から昇れといっているようなものだ。女性であるAさんを愛する女性たるヨルに、その愛だけは保留したまま、けれど愛しているというその自覚だけは捨て去れというのか。
ここで、普段性自認も性指向性も曖昧なのをヨシとする私に対して疑問を抱く人もいるかもしれない。けれど、ヨルがヨルであり、ヨル自身の基準によって「自分はレズビアンである」と認識して宣言することは100%彼女の自由であり、私は「そうなのね」とただ頷く。そのいっぽうで、私は私なのだ。レズビアンたるヨルの恋人である私も一緒に「だから一緒ね」という必要はまったくないし、そんなことをヨルも望んでいないことを、私は全面たる信頼のもとに断言できる。彼女は、私が彼女のセクシュアリティを尊重するのと同様に、私が曖昧な私であることを完全に肯定してくれていると。
「ヨルがレズビアンであると認めるわけにはいかない」と言ったAさんの宣言を、『それはAさんがヨルをよほど愛していたからじゃないか』という人がいる。そういう愛って愛なんだろうか。ただの束縛なのではないだろうか。自分が同性を愛していることをどうしても認めたくなくて、その保身のために相手を傷つける人は確かにいる。けれど、性自認を他人が動かすことはできないように、性指向性もそのひと固有のもので、それを他人が認めようが認めまいが、事実は事実なのだ。愛の束縛も時には甘美になりうるけれど、相手の自意識を無視した強要は、暴力としか思えない。政治とはちがって個人的な「私は○○である」という宣言は、なにひとつ相手の自由を侵すものではない。ヨルがひとりで悩んで勝ち得た誇らしき自意識のなににAさんは怯えたのだろう?その怯えを、私は愛と呼びたくはない。
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