仕事疲れでぼんやりと歩いていた家の近く、チラシ配りをいつものようにやりすごしてから気付く。年輩女性がおずおずと差し出した手作りのチラシは、おそらく近所の個人経営の飲み屋。素人くさいチラシ配りを受け取り損ねたことにすこし落ちこんで、用を足して同じ道を後で通ったら、もうチラシ配りの女性はいなかった。こういう店には、こういう女性には、頑張って欲しいのに。
私は女であることに対して、大きな括りではかなり肯定的だ。
いや、むしろ女バンザイだ。読んでいる人の大半が瑠璃は男嫌いだと思っているだろう。。実際、あたし現在、恋愛対象としての男にはほとんど興味を持っていない。ゼロとはいえないのは、いつでも番狂わせはあるからだけれど、こう言われて引いてしまう男性はそもそもつまんないとも思う。そして事が私自身の性自認の話になるともっとはっきりしていて。おかしな話、肉体的には限りなく思春期の少年のような体つきに憧れるのに、社会的性別は女でいいのだ。ちがう。社会の「上」にくる性別、他を圧する側にいたくないのだ。これはずるいこと、なのか。
おかざき真里の右往左往する大人の思春期漫画「サプリ」も六巻目。なかなかドライブさ加減が佳境に入ってきたなあとコミックスで読むと改めて彼女のバランス感覚のよさに感動する。ヨルなんて、「絵がうまくなったーーー」と唸りながら読んでおった。
私は彼女が描く典型的ヘテロセクシャルな世界に生きる女と男のおままごとみたいな恋愛模様も、ものすごくわくわくして読む。彼女らが広告業界という究極の物質社会+男尊女卑環境で精神の充足を求めて仕事に走り回る姿というのは、ヘテロセクシャルに疲れ、ホモセクシャルにも同調しきれずに居場所を求めてフラフラあちこちを彷徨い歩く自分自身に妙に重なるところもある。自分にとって都合良い答えを結局もとめているだけなのかと自問自答しつつも、今日もまた一日を過ごすしかないのだ。
少年のような体型に憧れ抜いて身体を壊した二十年近く前と、今なにが違うだろうか。社会的には大人になり、あやういながらも自活して、恋人と暮らしている。当時私の目の前で毎日喧嘩していた両親は年をとり、時間という心強い味方と、病気という不安定要素が二人の仲を仲裁してくれて、今では落ち着いている。私の生活に直接影響を及ぼすこともない。環境は大きく変わった。けれど私自身は?傷を大事にしてはいけない、と誰かの声が耳元に聞こえる。そう。傷は風に晒して乾かさねば快癒しない。だから、傷は抱え込まない。ただその傷をつけたものが何だったのか、永遠に解けない謎だけは、心に残しておきたい。矛盾しようが、また次の傷を呼ぼうが、それはどちらでもいい。
傷には肯定と癒しを願って。
?(疑問符)には答えを。いつでもYESを、とE.M.フォースターは言った。触れられるのは肯定されること、とおかざき真里は描いていた。胸の奥でうずきつづける疑問符への、YESという力強い答えを、あたしももとめ続けている。
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