誰よりワルイあたしたち。なんだかイマドキの若者が使うとただのナルシストだけど、文字通り飄々としたたまねぎまげのミムラねえさんが言うと説得力があるような。一体全体、どんなふうに、どのくらい「わるい」んだろう??ドキドキ。
■くろぐろとした気持ちを抱きがちなあたしは、それでもまあ、その黒さのなんてことなさを自覚しはじめたあたりから、わりと楽しく日々を送れるようになっている。傲慢という言葉をここ数ヶ月あちこちで目や耳にして、自分でもよく使っているなと気付いて、ふと考え込む。傲慢ということばによって呼び起こされる感情は、どう相手に影響を与えるんだろう。私が自分のことを傲慢だと呼び習わすとき、思いつくのはふたつの状況。この傲慢さをなんとかせねばと焦っているときと、この傲慢さをみとめよと誰かに迫っているとき。自分にストレスを与えるのは前者。相手に強い不愉快さを与えるのは後者。そして、前者から後者へはいとも簡単に移行する。
■ムーミン谷の11月。続き。すみずみまで読むにつけ、謎の多い物語だと思う。一番の謎はフィリフヨンカのあっちこっちうろついた挙句、結局だれよりも一番落ち着いて自分の戻ってゆくところ。どこにも彼女の心境の変化のきっかけがわかる具体的な事件はない。主人公たるムーミン一家は旅に出て留守。どこまでもただ待ち続けながら、好き勝手して、最後にはまた勝手にもどってゆくお客ら。こんな家がいいなあ。好き勝手に、家ともいえない、誰もが入っては出てゆく。テントでしか寝起きしないスナフキンも、この家を一年の拠点にしている。
■mixiでヨルをずっと恋人、と呼び続けることについて。恋人、という呼び方には実はずうっと違和感を抱いている。なぜ私がこういう呼び方をしつづけているのかというと、日記を公開した際の検索避けという実質的な理由に加えて、ヨル自身の性自認がはっきり固まっていないので「彼女」「彼」という呼称にもなんだか居心地が悪いこと。さらにもっと根本的にわたしの側の意識として、ヨルを「恋しい人」として常に意識していたいため。それは、周囲が私たちを「友人の同居」と考えたがることへの抵抗であったり、長く暮らす間にはびこる馴れ合いというくもの巣を定期的にはらい続けるためのハタキみたいなものでもある。
それでも私にはなにかやはり、「恋人」と打つたびにかすかに胸のあたりで軋む感じがあって、それが気になってはいた。そういうとき、ネット上で自分の恋人をひたすら「恋人」と呼び続ける文章を読んで、どうにもお尻がむずむずする感じを味わった。その人はどうやら「恋人」という言葉が洒落ていると思っているように全体の雰囲気から感じられ、名前を書かないことで顔の無い「恋人」を自分の背景として配置するような、自己耽溺も感じられた。もっというならば「ぼくにはすてきな恋人がいるのだ」と自慢したがっているように。。。見えた。なるほど。私の文章もこんなふうに他人には見えるのかもしれない。不気味だ。こんなにも他人をexhaustさせる「恋人」という言葉、面白いじゃないか。いっそ違和感をどこまでも追求して使い続けてやろう。そして、「読んでいやな気分になる空虚なオレサマ日記」の座を求め続けよう。。。。。かな。うそです。ちょっと疲れているみたい。。。助けて、ミムラ姉さん(汗)。
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