同性愛ばかりを描く監督デレク・ジャーマン(この呼び名には大きな間違いがあるが、敢えて)のエドワードII。先日「カラヴァッジオ」を観たばかりだけれど、正直言ってあちらにはクラクラするばかりで毒気にあてられて沈没した。エドワードIIのほうもどうだろうと不安をもちつつ見れば。。複雑な社会と人の心の仕組みをものすごくシンプルに描き出していた。原作となったシェイクスピアと同時代の劇作家であり同性愛者ゆえに謀殺されたとされるクリストファー・マーロウの脚本の言葉をなぞっている部分もあるかもしれない。古語ではないからこれも翻訳といえるかもしれないけれど、言葉運びがそれゆえに舞台のそれに近く、私にとってはものすごく馴染みやすい。奇妙なのだけれど、パフォーマンスの世界にあっては、人がしゃべる言葉は日常会話のようであってほしくない。理想ではなく、それは感覚。とってつけたような日常会話が白々しく聴こえるのだ。
この映画が撮られたタイミングは、イギリスで1960年代に廃止されたソドミー法に準ずる法律(成人間の同性愛行為を違法として禁止する。もちろん罰則つき)が再制定される危機に瀕していた1991年。デレク・ジャーマンはもともと企画していたこの映画が同性愛者を弾圧する法律を粉砕するためのきっかけになればという思いをもっていた。1995年のワイルド裁判から100周年のときまでには法律による同性愛者の差別はなくならねばならないと。
映画全編に漂うのは、強い怒りと悲しみ、そしてそれはエドワード二世と彼の恋人ガヴェストンの甘い恋によって際立つエッセンスとなっている。けれどやはりこの映画のテーマは愛ではなく、その裏返しとしての憎しみであると感じる。王に邪険にされる王妃イザベラ、ガヴェストンとの愛を国中に反対される王エドワード、貴族達に卑しい身分を笑いさげすまれ、なぶり殺されるガヴェストン。ガヴェストンのために復讐の鬼となったエドワードは愛するものを殺した仇を肉きり包丁一振りのもとに切り捨てる。愛されなかった王妃の復讐の犠牲となった王と恋人。しかしもとを辿れば愛されなかった王妃の悲しみは、二人によってもたらされたものでもある。
観ながらずっと私の頭を混乱させていたのは、なぜ王と王妃は憎みあいながら利用しあわねばならなかったのかということ。常に刃を喉元にあてた格好でたがいを監視しあっていた一組の男女は、なぜここまで憎しみを育ててしまったのか。目には目を歯には歯をとばかりに暴力に暴力で応酬しあう二人は、政治なくしては繋がらず、なお政治ゆえに離れられないことから、権力を盾にしようと、ただ暴力のために暴力をふるうように変化してゆく。愛されたいと願うばかり、そして愛したいと逃げるばかりの王妃と王のバランスは、とうとう国中を巻き込んだ殺人へと発展していってしまう。なんて悲劇。なぜ愛し愛される形をこの二人は拒否せねばならなかったのだろう。。エドワード二世が同性愛者でなかったら悲劇はおこらなかっただろうか。いや違う。違うけれど、やはりそうだ。つまり、王は同性愛者だったゆえに殺されたけれど、同性愛者だったゆえに王位を追われたわけではない。王妃を愛せなかったゆえに、政治から弾き飛ばされた。
ここで書いている「政治」というのは国会で繰り広げられるマスゲームのことだけをさすのではない。街頭の宣伝カーを指すのではない。談合を指すのではない。
人間関係の中の力のバランス。それは容易に崩れて、暴力という形になって噴出する。けれどあるいは甘いくちづけとなって、相手と自分の関係性をズブズブとまた濡らしてしまう。そういう凶器のような、狂気のようなものも含めて、政治と呼ぶ。王妃を愛せないのに、愛することをもとめられた王は、すべての政治から弾き飛ばされ、しまいには同性愛者であることを憎しみの温床としてその身に受け止め、非業の死を遂げる。
殺され滅ぼされた王と恋人も、謀略にかけて殺した王妃と大臣も、愛を政治の犠牲として捧げてしまった。いや、滅ぼされた王と恋人は、愛を勝ち取った側なのか。世の中はすべからく、バランスで出来ていると人はいう。それでも私はたったひとつだけ例外があるといいたい。純粋な恋、というものは厳然として存在して、それだけがすべてのバランスを打ち砕ける。いや、溶かし込める。巷に氾濫するロマンティックラブではなく、掛け値なしぴかぴかの恋、そんなものがこの世のどこかに存在するのだと夢想する私は、すべての謀り事、肉、水、死さえも飛び越えて愛が行き続けると信じる。なぜ愛ではなく、政治でなくてはいけないのか。その答えをエドワードIIはなにも語ってはくれない。志半ばにして世を去ったデレク・ジャーマンの後を継いで、愚かですぐ溺れるわたしたちは考え続けなければならない。
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