会社帰りに最寄り駅のそばのリブロへ寄ってみる。
別に何をということもなく眺めていたのに結局人形の写真集のコーナーをみつけてしまう。
ひさしぶりに見た、ハンス・ベルメールの写真集。
やっぱり欲しいな、と思い、気付けばレジへ。この金額を衝動買いは正直痛いけど、ベルメールの写真は繰り返しみたいのだ。ベッドで。
見れば見るほどにうつくしい曲線。
球体関節人形の美は曲線、ラインに極まれると思っている。
ベルメールの人形の曲線は肉感的でどこまでも指でなぞっていけばなにか宇宙の秘密にたどり着けそうな果てしなさを感じる。うわあと思いながら、やっぱり見る、見る、見る。
言葉を使ったやりとりの難しさというのは、いやというほどに感じていて、けれど、それでも捨てられない。ひとさまの日記を読んでふむふむと思ったりしている。テキスト、言語というのはなにもこうしてキーボードからタイプアウトされる文字ばかりを云うのではなく、誰かが何かしら行動をした、それを見た、受け取ったがわの「解釈」というものもまた言語化の一つであり。あたしはそのプロセスを楽しんだりいらついたりする。いっぽうで、「解釈を加えるんじゃないよ」とひとりですごんでみたりもする。人形に惹かれるのはそこに圧倒的に「存在する」ものだからかもしれない。言語は「存在」しない。ただそこにあって、誰かの解釈を待つ。人形は解釈の余地もありながら、間違いなく実体としてそこに在る。ああ、結局あたしはテキスト人間なのだ。
テキストに人形化では意味がない。限りなく自由な人形を。ヒトガタを。ベルメールのヒトガタは、ヒトガタという条件に縛られる範囲の中で自由だ。たとえ頭がなくとも、足が四本ただ繋がっていようとも、そこには明らかに「ヒトのパーツ」としての縛りがある。
それじゃあ、すべてのパーツを備えて、かつヒトガタの制限から自由な表現はありえるだろうか。
水や香りの良いお茶を浴びるように飲みまくり、ひさしぶりのカフェインで朦朧とした頭で、複雑に入り組んだヒトガタの曲線をながめて居る。もう少しバランスと思い切りのよさが必要だ。あたしの不自由さに未練なくバイバイする、思い切りのよさが。まだなのか?まだ。。。
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