■シュヴァンクマイエルの映画「ファウスト」で使われた小劇場のセットと大きなマリオネットたち。木を削って塗ってつくられたマリオネットは堅牢だけれど、傷もまた多い。
人の立つ舞台よりはるかに小さなその小劇場は、文字通りの小劇場。そこに芝居小屋のすべてがある。すべてがあって、じっとして居る。女性のマリオネットの前、何度もいったりきたりながら、じとながめていた。わずかに傾けた額が、表情に悲しげな陰をつける。表面についた無数の傷が、彼女の心の表面に浮いているように思えて、じっとみて居た。
■シュヴァンクマイエルが好きで人形にも興味を持つ知人に展覧会があるよと帰る道すがらメールで知らせたら、早速今日行ってきたと報告があった。人形もよかったけど、触覚の芸術が興味深かったとだけあった。なるほど。以前から趣味の入り口はわりと共通するのに、肝心の物事の受け止め方が私とは違う人だなあと思っていたのは、彼女が触覚という身体感覚からものごとに入ってゆく人だから、だろうか。私は触覚より、視覚だろう。視覚から呼び覚まされる記憶に私の受容体は支配されている。記憶。記憶に繋がるものでもっとも直感的なのは嗅覚だと思うが、触覚と視覚ではどうちがうんだろう。触覚から沸き起こる記憶の渦は、より肉体の内部に入り込むもののように思う。視覚のそれは、より精神的なものを喚起する。ように思うのだけれど。今度この知人に会ったら聞いてみよう。
■二度と見たくないと思っていたものを、突然見せられて呆然。じわじわと一年すこしまえの記憶がよみがえり、冷や汗と下腹部の鈍痛が襲ってくる。結局一番大事に思っていたものに傷つけられた痛みなど、その辺ですれ違うヘでもない人に受けた痛みに比べれば私にとっては痒いくらいのものだ。大事に思っていたなら、傷とても愛しい。思っていない相手のつけた瑕は、自分にも誰にもいいわけできない。ただ痛む。ああ痛い、痛い、痛い。痛いといえるだけ、マシだけれど。黙って腹を抱えて沈んでゆくしかない人々と比べれば、私はおそらく楽だろう。
■四谷シモンの「四谷シモン前編」を拾い読みしている。細かいエッセイや雑文の寄せ集めだから、どこから読んでもさほど困らない。人形に関する考えは、私が「ああ、これはわかるなあ」と思う部分と、「まったく分からないわ」と思う部分が半々くらい。四谷シモンは私が球体関節人形を知ったきっかけの一人であり、学生だった私は表参道の駅の通路にあったエコールドシモン(四谷シモンの運営する人形学校)の広告サインに憧れていつか私もここに通うのだと夢見ていた。それがいつのまにか、シモンの人形に対して抵抗を抱くようになったのは、彼がつくる自動人形への抵抗か。私は人の手によって人形を動かしたい。だからアニメーションに興味を持っているのだろう。自動人形には興味が無い。このあたりは、すこしずつ読んでいけばなにか見えそうな気もする。
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