バースディケーキを友達と一緒に食べ、恋人が作ってくれたご飯を楽しみ、そうして更けてゆく夜の中で、恋愛観の話になる。たまたまそれを試されるようなシチュエーションがあって、それゆえに友達に動揺を与えたという事件があった。実を言えばあたしの中でその事件は続いているのだし、おそらく一生そういう微妙な感覚というのは消えない。でもあたしはそれだからそれ、なのだ。
並んで住宅街の屋根に反射する夕日を眺めながら、ベランダで彼女はビール、あたしは梅ソーダを飲む。
彼女があたしの左手をそっと握って言った。
「あたしは一生こんな感じで、いいや」
うん、とあたしも頷く。それはお互いその「一生」を諦めたり、あるいはただここにこうして座っていることの幸せだけを言っているのではない。むしろこうしてベランダで二人並んで座っていることの不安定さ、不確実さを含めての思いなのだと思う。それは彼女が「いいや」と言ってしまったあとで少し戸惑って、何かを言い足そうとしたことからも分かった。「一生っていうのはずっとこのままっていう意味ではなくて」
うまく言うことはできないけれど、あたしもやはり同じ気持ちではある。ただあたしの不安定さというのはそういう振れ幅を軽く超えているから、ときどき恋人の立場さえも跳び越して飛んでゆくところがある。だから結局、一生安定することなんて夢物語であること、そして本質的にはあたしは(彼女も?)それを望んではいないということ。
その感覚、というのはおそらく彼女とあたしにしか分からないものでもある。
そういう周囲には決して理解できない、あるいはしにくい感情を恋人との間に抱えていられることは、幸運なのかもしれない。それがたとえ幻だとしても、あたしは彼女とともにこの思いをこの世の最後の砦として抱いていられる。他の誰があたしに背を向けても、彼女だけはあたしの思いをともに抱いてくれる。そう思う相手がもっともあたしの抱く思いに傷つけられるかもしれないのに。あああたしは彼女を、もっと強くぎゅっと抱きしめていなければならないのだろうか。
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