忘れた頃にまた熱病に侵されるように聴きたくなる。繰り返し繰り返し。
うわぁんと泣けるのは恋人の前だけで、でも本当の大人ならたとえ恋人といえど人前でそんな風に泣いたりはしないはずだ。一人秘かに声を出さずに泣くはずだとか、枠を並べて安心したり絶望しようとしてみたり。
可淡の小さなものたちは昨日も変わらずそこにあり、あたしの五年そこらなんてそこにありはしないかのように透過させてゆく。五十センチに満たない小さな少女たち。しかも彼女らは少女でさえない。可淡の分身たちはあえかな存在感で、あたしに時間の持つ圧倒的で同時にあまりに無力な腕の業を思い知らせる。結局時間薬の優しい手があたしの傷の上に施す癒しは、忘却という賢くも暴力的な残酷を伴うのが絶対条件で、忘れたくなんかないと虚しくも抵抗するあたしの耳元で説得のことばをささやく。あたしは忘れたくなんかないのだ。けれど、優しく柔らかな人と人の関係性のためにはあたしは忘れねばならない。大事にしていた些細な傷や甘い苦さは丸ごとあたしの古い携帯のメモリと共に微弱な電波となってやがて完全なゼロになる。デジタルのゼロは容赦ないゼロなのだから。
『もし君が傍にいた
睡れない日々がまた
来るのなら?』
九年も前に去って行ったヒトのことは遠く、ふと思い出すと日々の全てだったことにぼう然とするけれど。もしささいな癖や関係性の温かさを克明に憶えていたとしたら、あたしはあの人にまた恋するだろうか。すぐさま出る答えは「No」。ここでも時間。痛みさえも恋情であったことに、気づく。無感覚な人間に恋はできない。
二十代のころ、あたしは生活と恋が完全に分離していて、小説があれば本があれば歌があれば恋は要らなかった。今のあたしは小説も恋も人形も歌も何もかもが欲しい。年を経ることでちっとも自由にならないとは、いかに。
※タイトルは「ある光」、文中の『』内は「いちょう並木のセレナーデ」、の詞by小沢健二
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