いつにもましてのダラダラ逡巡日記になる。
いや、正確には四十二なのだが。惑いっぱなし、という話。
結局あたしには、何をもって「真の友」なのか分からない。
あたしの言っていること、やっている意味が分からなくて夜中のファミレスであたしを質問攻めにした揚句、非常に含蓄あるアドバイスをくれた友人が真の友であることは疑いを入れない。たとえ彼女がただのアイドル好きのPerfumeオタクだとしても。
また、トチ狂ってオンライン上で友達に追いすがるあたしを見て、「Kさんスイートすぎ。あれはマジ引いたわあ」と面と向かって言い放つ友、その人もあたしの愚かさを直視して指摘してくれる友であることは、間違いない。さらに、ネット上のひどい中傷に怒って心配の電話をわざわざ掛けてきてくれたり、あるいは中傷を幇助している人にガマンできずに怒りのメッセージを放ったり、そういう計算外の行動を情動からしてくれる友人たちも間違いなくあたしの隣にいてくれる人たちだ。
では、Jさんはなんだったのか。あたしにとって。
悪かったのはオンラインのせい、という気持ちをどうしても捨てられない。ではオンラインでなかったら、実際会っていたらどうだったのか。あたしは迷うことなく当人を前に
「何馬鹿なことやってるの?」
と言えただろう。そして相手ととことん話し合うことだって可能だったろう。つまり、それがあたしの人づきあいのスタンスで、それはネット向きではない、ということなのかもしれない。ネットでは「知らんふり」が基本の大人づきあいとなっているし、彼のような性格では「スルーするのが格好いいのに」とすべてをスルーさせることも可能なのだ。そうしてあたしの気持ちは彼の指の間からするすると抜けおちて、いつのまにか足元を汚していたということなのかもしれない。
どうしても納得もできず、惑いを捨てられず、自分の人づきあいのスタンスを途方に暮れてNに助言を求めた。
Nの答えは、
「結果がすべてなんだよ」
と。どんな素晴らしい御託を並べても、どんな理由を並べても、結局はそこに現れた結果で判断するしかないと。
でもあたしはそこに現れた結果もだけれど、そこに至る人の思いもやはり考えてしまうのだ。彼はあるいはこうしたかったのかも、あんな風だったのかもと思いだすと、しかし収集がつかなくなる。物事の全面から見るようなことをしたら、それは気が違ってしまうしかない。それがここ五年~十年のあたしの苦しみの元凶だった気がする。すべての面からものを見ることはできない。あたしの立つ位置、人の立つ位置、そこを明らかにしないと、前に進むことはできない。でもあたしは出来うる限り多くの面から物事を見たかったのだ。でも、出来なかった。全ての視点?それはもしかして神の視点ということ?Jさんは出来たのか?しようとしていたのか?だから友人だったあたしを晒してでも他人の内面、裏面を見ようとしたのか。内面を見ようとする貪欲さはあたしは嫌いじゃない。だからずっとグズグズと彼のことを引きずってきたのだが、ここにきて完全に「裏切られた」感覚を持ったのは、あたしがあまりに表面的に物事を見る人間だからなんだろうかと迷っているのだ。。
少なくとも彼がオンライン上の安全な場所から、対象を眺めて精神医学とやらを紐解き、実践しようとしていたことがあたしから見て潔いとは思えない。彼は「相手のため」という大義名分があったようだが、目の前に絶対現れず安全な場所からしか自分を見てくれない人間を人は信用できない。他人から見ればあるいは「実際に会いましょう」と提案したあたしのほうが気が違って見えたかもしれない。けれどあたしにはやはり、安全な場所からの観察者ほど無責任で愚かしい存在はないと見える。もし彼がアクセス拒否を解いて、一対一でそれを始めたとしたらどうだったろう。誰にも知られず、彼と彼の一対一で。それならあたしはおそらく、黙って見守ったかもしれない。
そうか。あれがパフォーマンスであったことが、あたしを怒らせたのか。彼が主張している純然たる興味と、あるいは判官びいきの表れだとしたら、何も人がたくさん見ている場所でなくともよかったではないか。友人を晒し物にする道具として使ったことを、あたしは美しくないと感じたのか。いや、彼がそういう裏切り行為をどこか露悪的に行っているのに、傷ついた部分もある。
それでも。
と結局元に戻る。
関係性として見たとき、あたしはそういうドロリとした部分を含む彼そのものに興味を持ち、惹かれていたはずだし、そこにあたし自身の弱さも見て遣り取りをしていたはずだ。今あたしが彼に対してしている批判の心情的な部分については、明らかにあたし自身への自己批判も含まれる。あの遣り取りの間、あたしは彼であったし、彼はあたしだったのだ。それを拠り所にあたしは彼への道しるべにしていたのだ。
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