あたしの恋人は大体大雑把なのに、どうでもいいところで神経質だ。
普段何も言わないくせに、あたしがコーヒーメーカーに干からびてしまったコーヒーかすをそのまま残してみたりすると、後日ひどく不機嫌になる。まるでそのせいで自分がコーヒーメーカーを使えないことが理不尽なようだけれど、いずれにしろ彼女はその装置を面倒くさがって普段使いはしないのだ。そんなふうに思うんだったら、自分でコーヒー淹れて自分で片付けすればいいんだ、というのがより大雑把なあたしの言い分。
そんないい加減で細かい小姑のような恋人がその大雑把さを可愛いらしく発揮するのが、あたしに関してのいくつか。たとえばゆうべ。あたしは川上弘美の「センセイの鞄」を読んだことを告白した。なぜ告白かというと、あたしは川上弘美を読むたびにこきおろしており、「蛇を踏むだけ頂点にして唯一の傑作」とか言いたい放題をいうから。そうしてけなしながらも諦めきれなくて、次々と近作も読んではやはり不貞腐れて恋人に報告するのが習わしで、さすがにあたしも、自分が好んで読んだ本の愚痴ばかりを聞かせられる彼女が気の毒になってきていた。そんなわけで、「また懲りもせずに読んでしまいました」と、告白、なわけである。ただし、今回はいつもと違った。
「面白かったのよ」
という意外な面での告白だった。この作品が出たころからヒットして、しかも映画にまでなって、小泉キョンキョンなんかが主人公やったりして、そういう流行りものっぽいところも気に食わなかったのもあって、とにかく川上弘美の中でも特に遠ざけていた作品だった。あたしの言い分はこれ、「センセイの鞄」の「センセイ」がカタカナなのが気に食わない。スローライフ系雑誌で彼女が連載している短編の駄作っぷりを思わせる。というわけで、もう何年も目の端っこに映りながら避けていた一冊を、どういうめぐりあわせか、古本屋の100円コーナーで手にとってしまった。そうして読んだら、良かったのだ。「面白かった」は正確には違う、「よかった」。悔しいけれど、良かった。とても。
あたしがケチョンケチョンとけなしていたとき、彼女は川上弘美に関してどうでもいい感想しかもっていなかったらしく「まあね」とか「確かにカタカナはないよね」とか言っていた。なのにあたしが昨日、思い切って「よかった」と言ってみた途端ににっこりして言ったのだ。
「タイトルがいいよね」
つい綻んでしまった。だってあなた、あたしがケナしていたときは一緒になって散々言ってたくせに。もうもう。でもいいのだ。彼女が愛する作品というのは別にあって、川上弘美はおそらく恋人にとってもっともどうでもいい作家のひとりだからなのだろう。こんなふうにあたしの気分と感想次第でくるりくるりと印象を変えられる。「でもさ」とあたしが続ける。
「あたしはタイトルはいまいちなんだ。やっぱり『センセイ』はだめだと思う。『先生』でないと」
「あのさ、向田邦子を意識してんのかな。『父の鞄』」
「あ、そうかも。似すぎてるよねえ、タイトル」
いや、よく考えればそういうタイトルの書籍は他にもある。森茉莉の「父の帽子」とか。いや、「センセイの鞄」から「父の帽子」は飛躍しすぎか。諸々考えて、いつか思考がぐるぐるしてゆく。結局本当にどうでもいいのだ。彼女も、あたしも。コーヒーメーカーに残った滓に怒る彼女が、あたしのどうでもいい読書与太話につきあい、あたしの流す風に吹かれてふわふわと楽しげに揺れている。この空気の中、あたしにとって重要なのはそのいい加減さであり、拘りの無さであり、あたしを癒してくれるのは彼女の下世話さでもある。高尚な話なんて、結局だれも救いはしないのだ、と知る瞬間。そうして明けた朝、彼女は桃を剥いている。剥きものは彼女の担当で、あたしに食べさせる役目と自負している。
「Kってさ、剥いてあげないと桃食べないんだよねえ」
切り分けられた実をひとつ摘まんで噛みしめる。とっくに熟しきっていると思っていた会社でもらったお中元の桃はまだ硬くて、青い味がした。
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