多分これは、あたしがあまりに飽食に慣れきった人間だからなのか。小学校二年生くらい?のころ、学級文庫に何故か「悪魔の飽食」が置いてあって(あれはセンセイのものだったんだろうな、やはり)、ドキドキしながら読んだよ。日本軍の悪行三昧。丸呑みにするとかしないとかおいておいて、何故かあのころ「日本軍」と父の職業(自衛官)は結びつかなかったんだな。いや、今でもそうか。多くの人は「自衛官」が「軍人」だとは思っていらっさらない。まあそんなことはさておき。
とにかくあたしは物心ついたころから、お腹一杯食べると泣きたくなって、なにか気持ち悪い感じがするという弱点がある。でも食べるのは大好きだから、ついつい食べ過ぎて「泣きたくなる」羽目に陥る。食べるのが好きというより、おそらく「欠けている」ことが怖いんだろう。
「欠けている」ことへの恐怖は取りも直さず「過剰」なことへの渇望に繋がる。過食、浪費、没頭それらすべてが魅惑的にあたしを誘う。
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「時の流れは実に早く、しかも我々は時の中をうしろ向きにしか進めないのです。(ヴァレリーが言ったように)。だから希望も失望もないのです。ただ過去だけが私どものあかしとして眼前に展開しているのです。私もあとずさりをしながら進んで行きます。時々横目であなたをみます。もしうしろに崖があったら、よこからは見えますからすぐ教えて上げます。」(栃折久美子「森有正先生のこと」)
装丁家の栃折久美子が、哲学者でフランス文学者の森有正から受け取った手紙。ただ過去だけが私どものあかしとして眼前に展開している。この言葉はいつも「後ろ向き」である自分、つねに前のめりで走っているようなのに、実は気づけば自分の歩いてきた道を眺めていることに戸惑っていたあたしの心に場所を与えてくれた。勿論、森はネガティブ指向なのではない。ただ、絶望の深さが並みではない。また、事実、人は歩いてきた道しか自分の前にはない。常に歩いてきた道を振り返りながら、いや、文字通り後ずさりながら、手探りで歩いてゆくよりないのだ、と。こんな手紙を敬愛する人から受け取った栃折久美子はどれほどに心震えたことだろう。恐ろしくロマンティックな人間は、ときに凄まじく現実的。そう。森は間違いなく、実感として後ずさってゆきながら、二十も年の離れた栃折を横目で見ていたのだろう。
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生きていた頃は殆ど全く思い出さず、思い出すとすれば恐ろしい夢の中で殺されかけるようなそういう関係性であった父のことを、彼が亡くなって四ヶ月、特にここ一月くらいほとんど毎日一度は考えていることに気づく。そうしている間にふと、四半世紀の間気づかなかった彼に関するひとつのエピソードに思い当たって、愕然とする。突然回路が繋がる。それはおそらく父が生きている世界の中で「生き延びる」ために必要だった壁が彼の死によって崩れたことで、あたしの中が混沌としているせいだ。
時に死は、やさしい。
それが、その人と私の間を明確に隔てる壁の代わりになってくれたとき、初めて気づくものがある。
森有正って学生の頃何か読んだんだよねえ・・・忘れてしまったなあ。
画面横に出ている栃折久美子の本の青の美しさと、引用されている森の言葉にそわそわ。
森有正、読んでみようかなー。
投稿情報: yayuki | 2009年9 月12日 (土曜日) 午後 10時08分
やゆちゃん読んでいそうだよな。いやなんとなく。
私はホント、こちら方面(哲学)に疎くて、名前さえ知らなかったんだよ。栃折久美子で初めて知った。
でね、この栃折久美子って人、編集者でもあった経緯で室生犀星の原稿取りなんかもしてて、その縁で彼女をモデルにした短編を犀星が書いてるの。「火の魚」っていうの。その周辺のエピソードがとっても面白い。
個人的には人間関係のスタンスが妙に似ている気がして「痛い痛い」になっちゃうとこ多いんだけど、その分とても力になる言葉がみつかる。本に付箋をつけない人間だけど、思わず抜書きなんかしてみちゃってます。
森有正読んだらついでに栃折もどうぞ(笑)。
投稿情報: K | 2009年9 月14日 (月曜日) 午前 02時21分