あたしは自分自身のsexualityを出来るだけその他の日常生活から切り離さないように扱っている。
もちろんカムアウトできない色々な事情がある相手というのはいる(Nの両親とか、現職場とか)けれど、究極を言えばばれてしまったところで仕方がないと諦められる心づもりなのだ。
そんなこんなで、あたしが持って現在更新しているブログはこの場所だけだし(以前使っていて倉庫と化している場所があるにはあるが、運用はしていない)、Twitterのアカウントも一つだけ。読書だろうが香水だろうが染織だろうが人形だろうがビアン&ゲイ話題だろうが、すべて同じそれらのアカウントから発信されてゆく。それでもときどき迷って言葉が切れることがある。「生活」のカテゴリで知り合った人たちにsexualityについてああだこうだとTwitterで呟いているのを見られるのは少々抵抗はある。また、香水になんか興味のない友人たちにわざわざ香水話だけのブログエントリーを読んでもらうのも悪いなとか。つまり、すべてごった煮ゆえの不便さというのもあって、それがちょっとしたストッパーになったりもする。
もともと何故わざわざごちゃっとさせておくのかという疑問。
これはあたし自身が普段暮らしていてとても不自由を感じることに由来する。
たとえばあたしのsexualityなんて知りもしないし知りたくもない人たちと接するとき、相手はもう当然のこととしてあたしをヘテロセクシャル(異性愛)の40代女性として扱い、しかも下手すると結婚したくて出来ない人、というジャンルに分けられることさえある。これはあたしがヘテロだろうがゲイだろうが同じ息苦しさではあるけれど。
別に見たい人には見たいように見せておけばいい。。。。のだが。
だから敢えて、Sexualityなんて話さなくてもやっていける相手に対してもそういう話題を出すことがある。
傷つくのが嫌な最近は滅多にやらないけれど。
それでも、「当たり前にヘテロ」と思っている相手に対しては何かしら一矢報いないと気が済まないワタクシでした。
未だに迷っている。
あたしの中のSexualityのことは、大事に慎重に取り扱うべきか、あるいはもっとぞんざいに、もっといい加減に扱って世間の風に当てるべきなのか。
エネルギーが減少すると、こういう行為もがっくりと減るんだな。
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