何かとても心を動かされる「もの」と出会うとき、できるだけそのもののエッセンスだけを感じ取りたいゆえに、作家と仲良くなりたくない、という思いがある。と同時にその素晴らしいものを生み出した人の人となりを感じ取りたくて、接近したいという思いもある。どちらがより強いかというより、その思いの振れる方向に何があるか、誰かいるのか、によって結果は様々なのだが、作家を知ってしまうと、作品を完全に切り離してみることは困難になるのは間違いない。
大好きな作品があって、好きなあまりに作家にファンレターを書き続け、常軌を逸したような熱烈な手紙を何度も書くうちに返事をもらっていつのまにか家に出入りするようになり、あるとき飲みに誘われて、なぜか泊まり込んで遊び、そのうちに相手の家族ぐるみ、友達ぐるみで行き来するようになる。ファンであることに変わりはなくとも、その人が作品世界を体現しているわけではないことは、ある程度経験を積めば理解はできる。理解は出来るが。微妙な境目を行き来しながら、「ああこの人は、この作品を生み出している人なんだ」と思う瞬間が、それでもやはりやってくる。それは大抵作品の中の刺のような傷のようなへこみのような何かに触れ、その苦みを作家自身の額の皺に感じ取ったり、あるいは目の奥の意地悪さに観たり、または声色の落ち着かなさに聞いてしまったり、そういう瞬間。愛する作品のバランスの中にはまぎれも無く「苦手な何か」が潜んでおり、それなくしては愛はない。グリーンカレーにあたしの苦手なパクチーが入っていないとグリーンカレーとは思えないのと同じ。きらいなものがあるゆえにとれるバランス、完成する作品はある。むしろそういう作品でないと、愛することは不可能。
けれど、緩く希薄なファンと作家という人間関係において、作品の中に潜むトゲを使われるとどうしたって愛することは難しい。作品世界のネガティブさというのは、作品においてのみ許容されるもので、人としてのあれこれに顕われることはまったくもって望ましくない。けれど望ましくないからこそ、作品の中で生きる。。。そんなこんなで堂々巡りだ。
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