風邪でぶったおれた恋人。まぁ、以前よりはずっと身体は丈夫になったが、それでもやはり人よりは多少免疫に弱い。だからかなりしょっちゅう熱をだしたり風邪をひいたりして寝込むから珍しくはない。それでもやはり気にはなるし、そういうときには自分の身体の弱い部分も分かったりはする。
買い物のついでにいつもの書店に寄る。
この書店は駅前の普通の書店にしては品揃えがなかなかマニアック。最近までユリイカのバックナンバーが揃っていたりした。入れ替えてなくなったけれど、それでも棚のジャンルの中にジェンダー系や女性学、また海外ものが多いのはあたしにはありがたい。去年くらいまであたしは日本の現代小説はほぼ全滅だったくらいに翻訳物だったという日本語に対する敬意のいささか足りない生活をしていたせいもある。しかし、トーベヤンソンの研究書ぎりぎりの新刊までここに置いてあった(他ではLIBLOやジュンク堂くらいでしか見かけない)のには嬉しい驚き。愛する可淡の人形写真集が再版された折にもちゃんと置いてあった。つまりあたしには貴重な街の書店なので出来るだけここで買うことにしている。
そのいつもの書店で何気なく雑誌のところを通りかかったら、いつも気になって憎くなるスローライフ系雑誌の元祖ku:nelが並んでいた。増刊としてスタートしたころから三年くらい前まで買っていたのだが、ある時突然、書かれていることと、それを実体としてrealizeした場合のギャップの大きさに呆然として、記事を読めなくなった。つまりあたしは世にいうスローライフブームにちゃっかり乗っていたわけだがその列車から飛び降りてしまった。その雑誌に毎号書評(というか作家紹介?)の記事がある。そこに取り上げられる作家はかなりあたしの好みに近いのでそこだけでも立ち読みしたりしていたのだ。書評は作家自身にインタビューしていたりして、それなりに読み応えのあるものだった。もちろん母体がマガジンハウスだし内容的には女性の作家には子供のことを聞いて、男性の作家には家庭のことを聞く、というようなstereotypeを払拭はできなくとも、それなりに旬の作家の「声」を拾っていることには違いなかったので。
昨日立ち読みしたら、倉橋由美子の記事だった。あたしは二十代のころしつこくしつこく学生運動周辺の時代の作家を読みあさった人間で、政治的な立場に放り込まれることを潔しとせず、かつ全ての群れにNoと言い放って孤高でありつづけた倉橋由美子はある意味精神的ガイドともいえる存在だった。孤高の人をガイドにすることの是非はともかく。あたしは彼女のよく云われる「少女性」にはほとんど着目していなくて、またもしつこく現れるマッチョな桂子さん的女性像には注目していなくて、つまりあたしが好きだったのは、彼女が描き出す饗宴や非現実の中に暮らす慧君のようなフリークスを愛するフリークスの存在だった。だから彼女の作品の中でも少々異色なもの(幻想絵画館、とかよもつひらさか往還とかのような、やや趣味に走る感覚の強いもの)が好きなのだ。初期?の中ではヴァージニアも好きだが、聖少女はいただけない。たぶん舞台設定があたしを引かせるのだろうが。いずれにせよ、亡くなったことを知ったときにはしばらく呆然とする程度には心を惹かれていた作家の記事だから、少し読んだのだが。すぐに駄目だと気づいた。インタビューは倉橋の娘。ところどころに彼女が作品と母を照らし合わせて感じたことを話しているのだが、とにかくどういう倉橋像を描き出したいのかが分かりすぎるくらいに分かるインタビュー内容。良き母として、作家業とクロスする部分を微妙に描き出しながら、それでもちゃんと娘を愛し家庭を愛した女性として。。。おおお、そりゃ雑誌のコンセプトがそうなんだからそうだろうよ。でもしかし。。。そうだ。結局あたしは雑誌というもののもつ性質、コンセプトに沿わないと記事にならない本来の性質に対して抵抗が強いのだった。
身もふたももないのぉ。。。と心に呟きながら、雑誌を棚に戻す。いやはや。しかしあたしはもともと雑誌も大好きだし、インタビューのたぐいもかなり好きなほうで、いつか自分でも誰かインタビューする仕事してみたいと思うくらい(なんのために?)なんだが。なぜ駄目なんだ。。。?と考える。とりあえず、「家事」というものがインタビューされてまとめられるような種類のものであるのかどうか。いや、家事を馬鹿にしているのではなく、あたし自身家事をしていて感じるのは家事は「する」ことであって、「考え」たり「深め」たりするようなものではない、ということ。とにかくコナシてコナシて出来うる限り日常に埋もれるように。そうか。つまりは埋もれたくない人たちのコンセプトに引っかかるのか。。。そうしてまた、考える羽目になる。矛盾。
亡くなったんですか?
洋物系なアタシとしては、知らないうちに亡くなってしまったで…。
スロー・ライフ系って、
ある種naturalの固定観念がダメかもです。
投稿情報: Bastian | 2009年12 月 6日 (日曜日) 午後 08時11分
Bastian様
倉橋は三年くらい前かな?亡くなったんですよ。
彼女らしく最後まで執筆していたらしいです。
最後まで作風が変わらなかった、ある意味貴重な作家ですね。
私ももともと洋物系なので(笑)、でもどっかで女性作家、それも尖ったタイプの人は気になってチェックしてますねー。
スローライフは。。おっしゃるとおり、固定観念みたいなもんですね。ある種新興宗教に近いような。根拠と信じることが乖離してしまっている感じがどうも嘘っぽいのが苦手ではあります。。
それでもとっかかりが美味しそうなとこが、私には危険な香りなのです。ははは。
投稿情報: K | 2009年12 月 6日 (日曜日) 午後 08時31分