以下自分の記憶にとどめるためのメモにつき、かなり冗長注意。
今ひとつの天気のときに出かけた恵比寿の写真美術館の入り口は完璧で、イギリスのにおいがした、というのはサルガドの展示のときに思った。
で、もうひとつ付け加えると、このイギリスの印象にはもうひとつおまけがあって、須賀敦子がロンドンに滞在した折に父親が「ここに泊まること」(泊まってはどうか?ではなく、泊まること、という紋きり)と指示したホテルの佇まいを、あたしはこの美術館の入り口に近く想像していた。きちんと制服を着込んだ髭の執事めいた紳士がクロークを勤めているこのホテル、須賀敦子が格の違いから恐れをなして泊まることを諦めたそのイメージと、なぜか重なる。今思えば、写真美術館の質素な入り口はむしろ須賀が上等のホテルを諦めた後で選んだ安めの「きちんとした」宿に近い感じかなとも思う。いずれにせよ、あまり浮き足立ったところのない、質実剛健な入り口が気に入って、これからも展示が気になれば足を運びそうな気がしている。
昨日出かけたのはそんなわけで、気に入った美術館を休日に覗きに行こうという感覚が近かった。木村伊兵衛にはさほど興味はなかったし、ブレッソンもシリーズになっていた有名な写真のイメージのおかげで使い古された広告のような気が一時していて、強い興味を惹かれたというより、やはり写真美術館の入り口の魔法だろう。早めについて近くのコーヒー店で時間を潰し、開館直後に足を運ぶ。先日出かけたサルガドは日曜日までというせいか、ずいぶん人が多い。開館直後なのにチケット売り場に並んでいる人たちのほとんどがサルガド目当てのよう。売り場の女性が手元のサルガド展パンフを指差しながら「こちらとセットですとお得ですけれど」とチケットを勧めるのを断って希望のチケットのみ購入して会場に入る。
結論から云えば、思いのほか、良かった。というより、なにか自分の中の写真の認識を再確認するような展示だった。木村伊兵衛とブレッソンは交流があって、展示はそれぞれが互いを撮影した作品から始まる。どちらも少しユーモラスな表情と自然なスナップのような気軽さで撮られているので親しさが観て取れる。観てすぐに「木村伊兵衛、いい」と思ったその予感はあたった。展示は木村とブレッソンが半々くらい、それぞれの写真のゾーンを分けており、順路からいくと木村が先、途中からブレッソンに入れ替わる。木村の写真のうち、まず目を惹かれたのは、秋田の村の青年の横顔を写したものだった。絣の着物を着て、腕を組みながらどこか向こうのほうを見やる青年の眩しげな視線の遠さと骨張った顔の骨格。村の若者たちの中でこの青年だけが何か特別なのではないが、明らかに木村はこの青年をモデルと定めて撮っているのが分かる。それは別の場所に展示されていたコンタクトプリント(ネガをベタ焼きしたもの)を観てよりはっきりする。コンタクトプリントは写した1ショット1ショットが並んでいるわけで、写真家がどういう意識の流れで写真を撮っているかが見て取れる。何人もいる若者の中で、常に写真の中心にはいないものの、明らかにこの青年のためにシャッターを切っている木村の目線がコンタクトプリントに現れていた。青年のすずしげな横顔と、着物の懐手に高い位置で手を突っ込んでいる姿に、あたしはじいっと見入っていた。そうして歩いていくと、ブレッソンの区域に入ってゆく。彼の撮ったポートレイトをほくほく眺める。名前もそうそうたる面々だが、セレクションが面白い。ジャン・ジュネ、サルトル、ジャコメッティ、カポーティ、イオネスコ、sexualityもぐちゃっとしているのがあたし的には気になるのだが、サルトルとイヨネスコは同時代、右派と左派の代表みたいな存在だ。どうやって近づいたのか、そしてそれらを壁の端と端に並べるとは、美術館側も面白い。そしてそれらの中で一番インパクトのあったのがジャコメッティの写真。雨の中、通りの向こうからジャケットを頭にすっぽりかぶり、手は袖に通したままのまるで首のない人形みたいなジャコメッティが、背広の合わせの間から顔を覗かせてひょこひょこと歩いてくる。その姿を逃さなかったのがブレッソンの才。これ以上それらしいと云えないジャコメッティの個がそこに、その一枚に映し出されている。
あたしは木村とブレッソンの撮ったこれらのポートレイトを見るために展示の中を行ったり来たりした。出口から出てしまうともう見られないからと、うろうろして人の流れに逆らいながら、何度も松園を観て、青年を観て、サルトルを観て、カポーティを観て、そうして気が済んだかどうかはともかく、昼ご飯を逃して腹がすいているのに気づいて出る決心をつけるまで、ずっと展示を眺め続けた。ミュージアムショップにはこの展示の写真集があって、買おうかどうしようか迷ったすえ、とりあえず購入。あたしは印画紙へのプリントについては、その質感も含めて写真と思っているから、同じ写真がオフセット印刷で綺麗なぺったりとした紙面になっていると強い違和感を覚えるし、印象ががらりと変わってしまうことが多々ある。デジタル写真が嫌いなわけではなく、印画紙に焼かれた時の効果とジェットインクで映し出されたときの効果は違うと感じる。ジェットインクなら、同じ信号と光で構成されるモニターへ映し出されるほうがピンと来る。いっそプロジェクターでカーテンに映し出すというのではどうか、などと拘り台無しなことを考えついたりする。そのくらい質感の違いは大きく、デジタルとアナログの壁も厚い。そんなことを云っていたら昨今の印刷技術の全ては矛盾ということになりそうだが、作品としての写真と、情報としての写真は大きく違っていて、あたしにとって展示目録は作品集ではなく、あくまで目録としてあたしには意義がある。
ジャン・ジュネ、サルトル、ジャコメッティ、ボンヤリと見た記憶があるですよ。
ジュネの写真は、あまりにも沢山見てるので、どれだか分からなくなってますが、刺すような厳しさと悲哀が入り混じった眼差しに、いつも惹き込まれるんですね。
Je l'aime comme moi meme...
投稿情報: Bastian | 2009年12 月14日 (月曜日) 午後 02時02分
Bastianさん
ジャンジュネのポートレイト、web上に当然見つかるだろうと思っていたら、意外にもありません。
とてもとても穏やかで、少し悲しい表情でこれがあの刺すような叫ぶような華やかな文章を書く人とは思えない、ごく大人しい(と見える)人間を写したポートレイトだったのが印象に残っています。
私が最初にジュネを理解したのは、ジャコメッティを通してなんです。というか、ジュネが書いたジャコメッティの描写を通して、というか。だからそういう人たちの写真が一面に並んでいて、それだけで何か満たされるものを感じました。。
投稿情報: K | 2009年12 月14日 (月曜日) 午後 09時58分