とたんに腹が痛くなる、まるで中学生のようなあたし。こらーー←自分にカツ
今年の目標は、月曜日が憂鬱にならない生活ペースを作ること、かな。
しっかり行きます。キーワードは「動」です。前向いて、がんばりますわ。
とたんに腹が痛くなる、まるで中学生のようなあたし。こらーー←自分にカツ
今年の目標は、月曜日が憂鬱にならない生活ペースを作ること、かな。
しっかり行きます。キーワードは「動」です。前向いて、がんばりますわ。
良い子ちゃんが嫌い、なんていう小学生みたいなことをいっていてもはじまらない。
はじまらないので、ただその場を去った。
良い子ちゃんは感情を置き去りにする。けれど、本当に良い仕事をする人は人の苦しみと自分の仕事上のジレンマを天秤にかけたりしない。自分自身の肝に銘じることにする。
全身に刺青を入れたいという野望は相変わらずある。
みどりの蔓草を。この世にない花を織り込んで。勝手に四方八方に伸びてゆくような、自由闊達な植物をせめて皮膚に埋め込みたいという野望。
バイクに乗りたいなあとか思ってあれこれ見ているときに思いついた、タンクを白または黒一色に塗って、上に蔓草を這わせるグラフィックを入れるというアイデア。でもどうやらタンクにデザインを入れるには相当高くつくらしい。下手すれば刺青と同じか、それ以上。なぜ蔓草が好きなのか分からないけれど、実家にあった昔から好きな橘吉の皿の柄も蔓草で、一人暮らしをはじめてからわざわざデッドストックの茶碗をオークションで探して求めたりした。蔓草を這わせ、時間を埋め尽くしたい。心を埋め尽くしたい。隙だらけなのが不安、なのか。
朝二時をとっくに回った時間にむくっとベッドに起き上がった恋人は朝から初めて食欲を示し、サンドイッチとカップスープを欲しがった。ほんのすこしほっとして食べものをもってきて、汗みどろになったシャツとセーターを脱がせて着替えを手伝う。絞れるくらいに濡れそぼったシャツは洗濯機へ。食べ終わった彼女を寝かしつけて、また戻る。明日近所の内科が仕事初めなのは確認済みなので少し安心。早めに行ったほうがいいだろう。
市販の風邪薬がまったく効かない。ずうっと熱が上がったり下がったり。寒がったり暑がったり。あきらかにインフルエンザ。明日は病院に引っ張っていってやるといきまいたら、布団の中から弱弱しく自分で行くと。。。よほど辛いようす(汗)。
肋骨ヒビのうえに今度はインフルエンザ(仮定)。まったく正月早々えらい厄払い。
あまりに寒がるので家中の布団(つまり、二人分の冬物、夏物すべて)をかぶせたら、私がかける布団が無くなった。というわけではないけど、今夜は私は起きて看病体制。定期的に着るものを変えないと熱が下がらないだろうし。
そんなわけで、おきているのだから目いっぱい自分自身のことを考えよう。熱にうなされている恋人を差し置いて。
四谷シモンの著作は、私自身の人形との距離を測るのに、とてもよい指針になる。なぜなら彼の人形への思いの真髄は私とは真逆を行くところがあって、けれども人形に向かうスタンスはかなり近いように感じるのだ。もちろん彼は人形制作者としてはあまりにパートタイムな私とはまったく違う一年中人形のことばかりを考えるプロフェッショナルなのだけれど。けれど、ヒトガタという形を作り、それについて考察を巡らせる遣り方が私の「どうしてもこうなってしまう」あり方と似ていると感じるから。だから逆になにが違うのかが見えやすい。
彼にしろ、彼と吉田良・マリオ・Aの三人での対談を読んでいて疑問に感じるのが、彼らはなぜ人形と死とを結びつけるのか。これは私がもっとも敬愛する人形作家天野可淡にも一部通じるのだけれど、死臭というものを人形にまとわせることをとても意識しているようなのだ。けれどあたしは死臭にほとんど興味がない。人形が生きているかどうかということにさえ興味がない。人形は器、なのだ。魂を受け取る、そこに受け入れる器。生きているか死んでいるかはほとんど関係ない。あたしにとっては。
そのあたりをどう言語化するかが難しい。人形は言語ではないけれど、ある意味言語なのだ。形があるという意味で。四谷シモンが著作に収められた対談で澁澤龍彦に言っている。自分は芝居や人形が好きだ、形があるものが好きだ、と。確かに同じ。私も芝居と人形をとても近しいものとしてみている。だから四谷シモン(の作品)とあまりにも遠いと感じながらもその作品が気になってしまうのかもしれない。そうだ。芝居も人形も形がある。言語、という形。人形に言語はないだろうといわれそうだけれど、ある。形あるものには言語がある。あいうえお、とはまた違う、そのものによって体現される言語が。でもこれを人に話してもあまり容易には理解されない。理解、というより伝わらない。私が日ごろよく語り合っている恋人か、親しい友人の中でもさらに血の流れが似ている人にしかわからなかったりする。かと思うと、まったく知らない人がさらっと同じことを話していたりする。結局枠はわからないし、見えない。
三浦悦子が師である吉田良とものの一ページの対談。これはたいして中身はない。つまりは三浦が面白い可能性をもった作家であるという紹介を吉田良がしていて、それを三浦がありがたく拝聴しているという具合だから。この人の人形を最初みたとき、個展で感じたとき、過剰にデコレートされた人形のあり方にかかわらず、あたしはまったく逆の感覚を抱いた。安心感と、「ここにもこういう人がいるのか」という安堵、安らぎ。体のあちこちを縫われていたり、切り落とされていたりする人形に囲まれて安心感というのも妙だけれど、それが私の心の在り処に近かったのかもしれない。その感覚は、先日上野の美術館にムンクを見に行ったときに感じたものとどこか似ている。ムンクの「絶望」というタイトルの絵を見たときに感じた限りない安らぎと、三浦の人形に囲まれた空気のやわらかさは私にとって同質のものであった。
ファンの方がマイミクさんにいらしたら申し訳ないのだけれど、梨木香歩という作家を私はあまり信用していない。からくりからくさを読んだとき、どうも江国や川上の二番三番煎じの匂いがしてしまったのもある。「りかさん」の中で、『人間が自分から働きかけない限り、自然から自発的になにかの変化が起こることはない』、というような記述を見つけたときに「ああ、ここがあたしの感覚とずれるんだ」と納得した。「りかさん」は古い日本人形で、主人公ようことテレパシーで話すことができる。このりかさんのあり方は嫌いじゃないし、お人形遊び的な少女とのやりとりはまさに私が少女時代に通り過ぎてきた日常=遊びそのものだから、よくわかる。私はなにしろ十歳越えても人形遊びしていたのだから。けれど、自然の自発性、自然が生きているということを認めていない人が人形に魂を込めてしまったら、もうそれは完全に西洋的ホラーにしかなりえない。生きていないはずのものが生きている、抜け殻に魂が入り込んだ、という意味で。私の人形への傾倒はそういう悪霊めいたものは介在しないから、なにか違和感があるのか。けれど彼女の「りかさん」は嫌いになれない一作だ。人形のおままごとが生き生き描かれているせいかもしれない。桜の精に引き止められたエピソードはかなり好きだし。それでもおそらく私はこの作家をこれ以上読みすすむことはないように感じる。
自然の中にありその自然の中で受動的だったり能動的だったりする、両方の自分を置きざりにして、人形は作れない。
可淡の亡くなった翌年に発刊された写真集「Retrospective」が復刊されている。
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68309373
私は豪華本を予約したので一般発売の本を買ってはいないのだけれど、書店で手にとったら、かなり多くの写真が追加されていて見入ってしまった。特に人形作品そのものとは違うけれど、可淡自身の生い立ちを追うような章が付け加えられていて、また死のころにもっとも近しかった人物として吉田良の文章も載せられている。死後二十年近くたってからの、まさに人生を終えた人の集大成という感じでこれはこれでなにか味わいがあるのかもしれない。可淡の人となりをまったく知らず、まるで伝説のようになっているエピソードだけを耳にしたりした人たちにとっては、嬉しい付録だろう。オリジナル版の「Retrospective」の素っ気無いまでの作品集という体裁にこだわった形とどちらが好きか、手にとる人の好みによって大きくわかれそうな。。
ひたすら迷いに迷った昨年。今年は動く年にしたい。
人形にもっと近づき、入り込む手立てを考え中。まずは継続して制作する具体的な準備を整えなければならない。
以下引用-------------
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071214-00000904-san-ent
【ロサンゼルス=松尾理也】ハリウッドのトップ・スターのひとりで、女優のジョディ・フォスターさんがこのほど、自身が同性愛者であることを公の場で告白。これまで、根強くうわさがささやかれながら沈黙を守ってきたフォスターさんのカミングアウトが話題を呼んでいる。
フォスターさんは今月初めにロサンゼルスで行われたエンターテインメント業界の朝食会で表彰を受けた際のスピーチで、「いつもそばにいてくれる」存在として映画プロデューサーの女性を紹介し、謝辞をささげた。これを受けて、米メディアはそろって「フォスターさんが自身が同性愛者であることを確認した」と伝えた。
リベラルな風土として知られるハリウッドの映画業界だが、同性愛は強いタブーとみなされており、スターが同性愛者であることを認めるのは珍しい。フォスターさんは2人の息子がいるが、父親についてはこれまで一切明らかにしておらず、精子の提供を受けて出産したのではないかなどとささやかれている。
フォスターさんは13日に発表された今年度のゴールデングローブ賞のドラマ部門主演女優賞にも、「ブレイブワン」の演技でノミネートされている。
引用以上---------------
というわけでマスコミは「カムアウト!」と騒いでおられるわけですが、記事を読む限りちっともカムアウトなんかじゃなくて、ごく普通に公式な場で挨拶の中、パートナーに対して謝辞を述べているだけという気がするのはやっぱり私の感覚がずれているのかしらん。
この程度の発言が、ジョディ自身の意図とは無関係にぐるっと捻られて「カムアウト」と騒がれてしまうわけで、ハリウッドスターは発言に慎重になるわけだなあと思ったりする。むろん子役時代からハリウッドどっぷりなジョディはその辺重々承知の上で計算済みだからこそ、マスコミはおそらく「的確に憶測」したんだろうとも思うけれど。
それとはまた別に、このニュースの見出しを見て、「いまさら??」と思うのと同時に、なにやらほんのりうれしかったりする部分もあります。マスコミの反応も十分承知したうえでの発言だとしたら、ジョディ・フォスター自身の意図をどこかで発言する可能性もこれから先ありえるわけで。。まあ、どちらにしろ沈黙を貫くだけかもしれないけれど。
クラリスが見たくなったわ~。告発の行方のスレッカラシも良い。
水のそばへやってきて、ほとりに宿る。
父は病床、母は横に、水は絶え間なく流れてゆく。
枕をならべて同じ天井ながめながら、母がぽつりとつぶやく。あなたたち、ずっと二人で暮らしてゆくつもりでいるなら、小さな家でも買ったら。
頭金貯めないとね、茶化すあたし。母が寝息を立て始めたころ、じわりと感じる。
山ほどの確執と衝突と、痛みと。どれも腹に貯めたまま、でもやはりじわりと浸透する。
諦めでも、黙認でもなく、あたしの恋人をあたしの人生の伴侶と思っているのだと伝える言葉。母にそのつもりはなくとも。
ことあるごとに否定されながら、ときに泣き喚きながら十五年かけて伝えてきたことが、ようやく母の身体に染みわたりはじめているのだろうか。
家、というものがあたしにとって何を意味するのか、あたしはしばらくまた、考えるのだろう。
本当は昭島まで走るつもりが何の疲れか吉祥寺で力尽きる。エネルギー補給終えて地図で道を確認して走りだしたら、傍を緑が駆け抜ける。うわあ、と息を飲んだら下を流れる水が目に入って、やもたてもたまらずハンドルを切った。緑と水は私を吸い寄せる。
近くに大きな公園があるせいなのか、こんな小さな公園にくるのは近所の年寄りくらいらしい。水に姿を映して色付く木々が頭を下げる。枝の先に絡んだ蜘蛛の巣に、一枚だけゆれる木の葉。ちゅうぶらりんな今のあたし。
どうすれば良いのか判らぬまま、半泣きで窮状を恋人に訴えた昨夜から、何も変わってはいないけれど、何が私の人生をややこしくしているのか判らないこと、それそのものが問題であることだけを炙り出す。なんとも気の長い旅路で意識も朦朧としてくるけれど
火曜日からいよいよ自転車通勤と意気込んで前日夜に空気入れ作業中にタイヤのバルブを折ってチューブ交換とあいなる。
ママチャリから乗り換えていきなりのスポーツバイクでヤケクソにて自力チューブ交換。頼りはメンテの入門書とwebのみ。首っ引きで夜中三時までかかって交換完了。完了したけれど、どうも気に入らない。で、二晩目突入。さんざん悩んで試行錯誤して、自転車で50キロ走ってもならなかった筋肉痛になるくらいタイヤと格闘して、ようやく納得。うん。大丈夫。四日ぶりで試乗。うん。快調。
がっこん。がっこん。
変速機の音。
引き取ったショップの前でいきなりチェーンを外して以来、怖くて変速は後ろでちまちまやっていたけれど、夜中のハイテンション、思い切り良く前の変速機で変速してみる。成功。うわー。違う世界だ。走りが全然違うぞ。そうか。スポーツバイクってこういうことなんだね。と妙に納得しながら調子にのって変速しまくる。案の定、がっこんがしゃんがしゃん、またもやチェーンが外れる。あわあわしながら今度は自分ではめてみる。失敗しつつ、なんとかはまる。両手はオイルで真っ黒。砂をつけてこすったら、ますます汚れた。わはは。
週末はひとりで会社までいってみようと思っていたら、いきなり大雨。やられたなあ、と昼休みの会社、窓から外を見る。今夜から週末は粘土いじりながら、自転車メンテの勉強しようか。台所には、昨日大なべにいっぱい作ったあったかい豚汁がある。今頃きっと昼休みで帰ってきた恋人がほくほくとしてその豚汁で昼ごはん。夜も同じメニューなんだけど、あまり気にしない人でよかった、と勝手にほっとする。
あたしの人生ってとっちらかってるなあ、と先日思ってふと口にしたら、恋人が
「今はいいじゃん」
と笑って慰めた。そうね。とっちらかってる人間だからとっちらかってる人生。どんな人生だって最後にはつじつま無理矢理あわせることになるんだから、向いた方向に突っ走るしかないのだ。豚汁すすりながら、人生考えるなんてばかげてるかもね。大事なご飯を食べているときは、それでいっぱいいっぱい。ほかは後で考えればいい。結局考えすぎて、気付いたら歳食ってるのかもしれないけれど。
■荒川までサイクリング。
川沿いのサイクリングロードも気持ちいいけど、土手上の少々アスファルトのでこぼこ道が(自転車のタイヤには悪いけど)景色が心地よくて最高。恋人が体力回復に休んでいる間に、調子に乗って小一時間荒川沿いを彷徨う。ハデに初ゴケ体験したけど、河川敷だったのでまったくダメージなし。ラッキー。
水が盛り上がってくるような感覚。私は水が好きだし、水に好かれている気がする。というのも妙だが。
■帰りにふらりと寄った中華屋さんのランチが思いのほか美味しくて、あたりだったねと盛り上がる。
彼女が探しておいてくれたバイクアクセサリーの店で、ハーフヘルメットを物色。白地のシンプルなメット、両サイドに風とも水ともつかないデザインの流れるようなラインが入っている。いや、バイク用だからきっと風なんだろうけれど、あたしとしては水でもいいのだ。これからよろしくね。
■帰ってから一休み後、夕食を食べながらベジャールのバレエ公演が出来るまでのドキュメンタリーフィルムを観る。タイトルが『ベジャール、バレエ、リュミエール』。リュミエールというのは2001年当時ベジャールのバレエ団が取り掛かっていた新作のタイトル。いきなりタイトルロールでボレロが掛かって、美しい男女のダンサーを中心に作られた二つの円陣で強烈な群舞とソロの競演。ダンスを見るたびに思う。肉体を使った表現ほどに豊かなものはないって。これは完全に私的な見解で、読むと不愉快に感じる人もいるかもしれないけれど、私自身は、もしかすると至上の表現は舞踊かもしれないと思っている。私が人形に入れ込むのも、それを形作りたいのも、ひとつには舞踊への憧れ、肉体一つを使っての表現に限りなく憧れているせいかもしれない。だから手ひとつ作るのに一週間かかったのを壊してまた作り直したりなんて馬鹿なことを繰り返すのかもしれない。ベジャールがあのスリムとはいえない身体でときどき滑稽とも思える動きをダンサーに振り付け、それをダンサーが実際に動きにした瞬間に、ベジャール自身の頭の中にあったものが、ダンサーの肉体を通じて見ている人間に直接伝わってくるような。本当に不思議な感覚。肉体をつかった言語。「私の道具はダンサーの身体だ」というような言葉がこのドキュメンタリー中にあったけれど、まさに崇高なる道具としてダンサーの身体を思うままに操る、ベジャールの魔術師ぶりが際立ったドキュメンタリー。
■帰ってから今日辿ったルートと荒川のサイクリングロードで走り回った距離をざっと概算してみてびっくり。50キロ以上だった(汗)。ちょっとハードな運動だったかなという程度だけど、案外自転車ってすごい。ちなみにママチャリ部員はすでに沈没。寝入っております。お疲れ様でしたー。。
川が好きだなあと、思う。上の鋼鉄の橋をトラックがギュギュンと行き交う。
眼下を流れる川は、水面が揺れるのみ。
きっと海をみても同じことを思う。
水が好きなんだと、思う。
新宿で自転車を受け取り皇居方面から通勤先まで道を確認しつつテスト走行。ナビ、というよりコーチはママチャリにまたがった我が恋人。本当に大丈夫なのかと心配したのはまさに余計なお世話だったと思い知ることになる後刻のあたし。
慣れない変速機のために最初はチェーンを外しまくる。ぐるっとお堀を廻る。こんな綺麗な場所が一家系のために保持されてるのってすごい国だわ不思議ニッポン。
いつも一時間以上かけて電車通勤している職場の前に自転車横付けしているのに我ながら感動。している間もなく一気に帰り道。またお堀廻り。緑の水にダイブしたくなる。
本来通勤路となる道を使わず新宿経由で帰る。三丁目のタリーズでコーヒー片手に地図を広げてルート確認。
タクシーに煽られ、ロードレーサーに乗ったバリバリの人々に抜かれながら、車道をヨロヨロと帰る。
大丈夫か、あたし?ママチャリであたしに指示出しながらビュンビュン走り抜ける恋人の体力回復度に驚愕。きみがスポーツバイク乗ったらどうなるんだろう(汗)。
とりあえず疲れた。でも乗り心地は良かったから、頑張る。片道十五キロ以上。さて、どう乗ろうかなあ。
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