些細なことが大きなことになるのか、それとも大きなことは実は些細なことなのか。
あたしは彼女が入院する直前はずっと晩ご飯を一人で作り掃除をして・・という状態に陥っていたので、今彼女がご両親への電話の中で「コンビニ食をやめてずっと作って食べている」と言うと、喉に突き刺さったりするものはある。これまでだって、あたしが作ってたもん食べてたじゃんかとか。彼女の両親とのやりとりの中ではあたし側に葛藤が多いからそんなふうにも思ったりする。でもそのご両親の娘である彼女にはなかなかそのへんがピンとこないんだろうと思う。そんな些細なこと。
入院以前のあたしたちは、色々なことに草臥れて、色々なことに飽きて、色々なことに焦っていた。早すぎる野分のふきあれた一ヶ月の間にそういった「色々」が一見星の彼方へ吹き飛ばされたように見えたけれど、再び巡ってきた晴天の星空とあたしの間にはやはり雲がかかることもあるし、気圧で瞬きが見えなくなる瞬間とてある。月が真っ赤に燃えて穏やかならぬ宵もあるし、新月は真っ暗だ。大きな嵐の前に塵くずだったホコリが目に入ってなにも見えなくなることだってあるのだ。
もともとNは料理を仕事にしていたこともある人間だから、作ることは好きだし、その手際の良さはあたしにはとても真似ができない。とにかく早いし、慣れたものを作らせると動きがよどみない。立って作業のできない今でも、頭の段取りはおそらく完璧だろう。週末に入る昨日今日とあたしがご飯を作っていて、自分的には最高に美味しいご飯ができたとしても、Nが喜ばねば点数的にはゼロポイントだ。
あたしの作るご飯が、食べる人がいてもいなくても美味しいのか。それともそれは別ものなのか。おそらく一生考えたり考えなかったりしながらも、こうして躓きながら進んでいく。小さなホコリであたしの目が見えなくなっていたことを、忘れぬよう。ホコリをただのホコリでなく、まるで石ころみたいに思っていたことを忘れぬよう。でも、引っかかりをまた忘れぬよう。
かすかに電車の音が聞こえるこの部屋で、ぼうっと光るディスプレイに向かいながら、こうして考えているあたしのこの瞬間を、三十年後のあたしはどんなふうに思い返すであろうか。
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