どんな分野でも、「荒っぽさも味」という言葉はあって、人形でもそういう言葉を好んで使う人がいる。
確かにそうかもしれない。
たとえば、私が好きな天野可淡の人形。
創作人形の黎明期に生み出された作品たちは、今の人形のレベルにくらべれば、確かにその仕上げの雑さが目立ったりもする。
けれど、可淡の人形に「荒っぽさも味」と言うひとはおそらくいないと思う。
というのは、それらはみかけの「荒っぽさ」をはるかに超えるところで繊細な心遣いや、皮膚をつきやぶる強いオーラを感じさせるから。そしてなにより、基礎がある。すくなくともデッサンの狂った顔や人にあらざる妙な骨格をもった人形は一体もない。(意図的に骨格を狂わせている場合は別)
確かな基礎と技術に裏打ちされた人形は、たとえ仕上げが荒くても「荒い」とは感じさせない。むしろそれが勢いにつながっていたりする。
つまり、「荒っぽさも味」という言葉を言わせる作家は、結局その「荒っぽさ」を超えるものをもっていないのではないかと思える。
そのいっぽう、丁寧な仕事を施された人形は、とても愛らしい表情をしている。
今日、偶然から覗くことになった「小畑すみれ」氏の人形展は、肌のきめにまで心を注がれたような、深窓の令嬢ばかり。
私の場合、中途半端に「お嬢様」を作りたいと望んで作られた人形に対しては、どうも「ママ人形」という風な印象をもちやすい。抱き人形、あるいはよく出来た工業製品に感じるような冷たさのようなものを抱いてしまう。
小畑氏の人形は、まつげの一本一本まで丁寧にマスカラがほどこされているような、あるいはペチコートの縫い目まで神経がゆきとどいているような、そんな細やかさに溢れていて、それを人形たちも十分感じ取っているのがわかる。
根っからのお嬢様はいやみなところがない。
育ちの良さがただにじみ出るばかり。
周囲はただ、うっとりと眺めるばかり。
そんなおっとりとした空気を人形に感じられることはあまりない。
尖った神経を、なぐさめてくれるような、人形たち。
浦安の片隅のギャラリーで、ほっとしたい人たちを待っていてくれる。
人形展は、10月26日(日曜日)までです。
くわしくは、下記のご本人のサイト、「すみれの小部屋」でどうぞ。
http://homepage3.nifty.com/sumire_room/
obata_sumire
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