テレビで「千と千尋の神隠し」を鑑賞。
見るのは二度目。最初に見たときよりは楽しめた。
けれど、私はこの話にどうも親しみを覚えられない。
私の中の「神様」とどうもシンクロしない。
例えば顔無しなんかは、私の中でなかなか良い線いっているんだけど、彼が鍵婆に雇われる?ところでピキンと何かが切れるの。
あれでは単なる人間関係。
いや、神とてコミュニケーションと無縁ではいられないけれど、何か。。。違う。
うーむ。。この話がそもそもキリスト教やヒンズー教の神様を扱っていたらさほどに違和感はなかったかも。私にとっては親しみがある神道、それにアミニズムに近いものを表していたから余計に微妙な違いが大きなずれに感じられたのかもしれない。。
今のところ私が一番ピンとくる(表現された)神様というのは、ク・ナウカの「アンティゴネ」に見られた形。
「自らの信じる神に従う」
という形。
自分がずっと生まれながらにして抱えており、それを呼び起こして必要なときに耳を傾ける。
宮崎駿の描く神って、巨大だったり空が飛べたり、武力を行使したり、なんつーか最後には結局権力なんだよね。
権力が愛を支配しようとして、最後には愛が打ち勝つ話になってしまってる。
全員が苦しんでいるはずの働き場から千尋一人が解放されると全員が一緒になって大喜び。
そんなわけないでしょ?
みんな千尋みたいに解放されたいんでしょ?
どうして彼女が解放されると自分のことのように喜ぶの???
権力は愛では打ちまかせないと思う。
ただ、愛は権力にやられるだけやられるんだと。
でも、愛は無力なかわりに何も負かすことはない。
権力は権力によって負かされてゆく。
自ら破滅の道を辿る。
宮崎駿は権力を愛で覆い尽くそうとする。
できない。。。。と、私は思う。
できたら。。。。それは、嘘だと私は思う。
恋人を殺した相手を私は愛さない。
私の気持ちに一番近かった宮崎は「もののけ姫」なんだけどな。
アシタカさえいなければね。。。。(おいおい)
sen_to_chihiro
最近のコメント