人形を意識したのは、小学校での人形劇が最初だと思う。
立派に舞台を作り、小道具大道具きっちりの人形劇は今思えば当時の小学生には贅沢なほどの娯楽だったと思う。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜だった、ということしか記憶にないけれど、人形が動くということに、小さな小道具が実生活のなにかしらをデフォルメしたものだということに感激したのを覚えている。
恥ずかしながら、私は人形遊びを小学校を卒業する年までやっていた。
次に意識したのは、NHKで放映されていた人形劇。
「紅孔雀」というそれは、侍とお姫様が活躍する時代物で、綺麗に結い上げたカツラにかんざしを挿したお姫様の人形の繊細なつくりと、白い肌に鮮やかな紅を差した小さな唇が、体の動きや首の角度だけでさまざまに表情を変えるのにドキドキしながら見入っていた。
だから、私にとって人形の原点は「愛でる」というより、それをつかって想像の世界に遊ぶためのものだった。
そういう私にとって、人形を使ったアニメーションは、人形遊びの究極をゆくもの。ティムバートンやアードマンスタジオなどの欧米ハリウッド物はもちろん、シュヴァンクマイエルも見入らずにはいられない。最高の娯楽。動かないはずの人形が人の手でほんの数ミリずつ動かされてゆくのを眺めているだけで、心は躍る。
人間の「手」を感じさせるものでないといけないので、最近のディズニーアニメでは駄目。CGをどれだけ駆使しても、人の手の温かみには勝てない、と感じているから。
ユーリ・ノルシュテインのアニメは、一作だけ目にしたことがあった。
まだ大学をかろうじて出たばかりのころ、体を壊して人と会うことも働くこともできなかった時期に、近辺のミニシネマにだけ足しげく通っていた。今思えばロクデナシの時期に出会った色々な小さな宝物のうちのひとつ。
紙を引っかいて描いたような線の一本一本が、ギザギザと動くのが面白くて、とぼけているのに暗い色使いが当時の自分の心境に馴染んで、詳しい情報もないままに楽しんだ。それが「ユーリ・ノルシュテイン」という作家の作品だということに気づいたのは、ごく最近のことだった。
NHKで今回特集された「ユーリ・ノルシュテイン日本を行く」では、彼が24年来取り組んでいる作品「外套」について追いかけている。
その中で、彼のアニメーション制作の手法がちらほらと見えて、それが人形アニメのそれと酷似しているのに驚く。
ノルシュテインのアニメーションは見れば分かるが、人形を使っているわけではない。セルのようなものに描いた人物の手、足、顔、胴体などを組み合わせ、皺のいっぽんいっぽんまでピンセットで重ね合わせ動かしながら一コマずつ撮影してゆく。
彼のアトリエの棚をカメラが覗くと、その中を、さまざまな形、角度、大きさの手だけがびっしり埋め尽くしている。
他の棚にはきっと顔だけ、足だけ、もしかすると目だけなんていう棚もあるかもしれない。
その「手」たちを見たとき、私は偶然の符合に驚いて声をあげそうになった。
トーベ・ヤンソンの短編連作集「フェアプレイ」にマリオネット作りの老人ウラディスラウが出てくる。彼はある日訪ねてきて、芸術について主人公マリ(トーベ・ヤンソン自身がモデル?)に厭くことなくしゃべり続け、しまいにはマリをうんざりさせるが、彼が作った様々な表情を持つ「手」の造形がマリの前に取り出されたとたん、彼女はすべてを忘れてそれにのめりこむという場面がある。
最初に写真でノルシュテインその人を見たとき、なぜかこのウラディスラウという登場人物がノルシュテインと重なってしかたがなかった。繋がるのは、ノルシュティンもウラディスラウも傀儡を通じてものごとを表現するという点のみだったのだけれど。
それが、テレビの中に映し出された彼の無数の「手」の絵の中でかちりと重なった気がした。
もちろんノルシュテインのほうがヤンソンよりずっと若いのだから、ヤンソンが描いた彼女にとってはるか年上の芸術家ウラディスラウがノルシュテインであるはずはない。
それでも何故か、この、24年間もひとつの短編映画に携わり続ける頑固なユダヤ系ロシア人のノルシュテインと、「手」に命をこめたマリオネット師ウラディスラウには同じ血が流れているように思えてならない。おそらく、ヤンソンの考えていた創作と、ノルシュテインの実践している創作が、私の頭で重なったのだろう。
「外套」の仕上がった部分はまだ半分程度だという。
残りの半分が仕上がるとき、ノルシュティンはウラディスラウと同じくらいの年齢に達しているかもしれないな。。などと考えて、ひとり悦に入る私は、単なる独りよがりなファンかもしれないけれど。。。
norshtein_etv
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