私が盲目的になるものというとなんだろうと考えるに、人形を思いつく。といっても、盲目的といえるほどに絶賛するのは数人の人形作家にすぎないけれど、好きとなるともう、何も耳に入らない。
例えば天野可淡。
数年前行われた回顧展には、複数回通った。われながらおかしくなるのではないかというほどに、その世界に心酔し、耽溺した。展示方法には不満があったけれど、人形のある姿を損ねるほどではなかった。ガラスケースに入った人形にはいつも違和感を覚えるが、可淡に関してはそれすらもひとつの世界をカプセルにしたイメージに重なる。凍った時間。
現在の人形技術の進歩はすごくて、素人?でもかなり高い技術を持った人はいるように見受けられる。可淡の人形はときどきデフォルメが妙だし、仕上げも完璧とはいいがたい(作られて時間がたっているせいもあるとは思うが)。それでも私にとって可淡の人形はほかの誰も及ばない域に達したものがあるのだ。幼い少年にみえる人形の瞳が、老人のずるがしこさをもっていたり、太腿もあらわなストッキングをはいた生々しい少女人形が、まったく性を感じさせなかったり。以前それは「感性」とか「世界」とかいう曖昧な表現と思っていた。けれど今思うのは、やはりそれも技術の一部なのだと。
荒削りとさえ称される、極端なデフォルメの中。
ほんの少し反り返った足の親指の角度。
口元の僅かなくぼみにできる影。
ふしくれた指。
完璧なバランスを崩す、わずかな落差の絶妙さが可淡の技術であり、ただの人形ではなく可淡の人形として作家死後ますます人気を高めている理由となる。
いわゆる「感性」といわれる部分にこそ、ほかの人が盗めない鋭い技術が隠れているのかもしれない、というのが最近の私の感じ方。好きなら好きでよいではないか、魅力的なら魅力的でよいではないか?
確かにそうだけれど、魅力的なものの魅力がどこに潜んでいるのか、私はどうしても気になる。
つきつめてみたくなる。けれど、その技術がいったいどう私の何かに作用しているのか。それだけは分からない。結局つきつめられない部分が最も奥の秘密なのかもしれないけれど。
やっぱり盲目的になれない。こうしてまた、言葉の壁につきあたる。どこかで冷静に分析する自分がいて、それを超えたところで心動かされ突き上げるものに息を詰まらせる自分もまた、同時にいるのだ。
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