潮風になぶられながら、橋を渡って会場へ。
入り口付近で小さなマフラーを巻いた青年が、微笑み浮かべて客に説明をしながら休みなく紡毛機のペダルを踏み続けている。若い男性にしてはふくっと軟らかそうな指先は、ペダルと呼応して羊毛をするすると引き出してゆく。まわりをぐるりと囲む年配女性客のあしもとに座り込んで一心に青年の手元に見入っている小学生とおぼしき坊主頭の男の子がいた。
客たちが一通り説明を聞いて立ち去っても動かないのを見て、青年が声をかける。やってみる?と。けれど男の子は青年の手元をみたなり、首を横にふる。また、客たちが入れ替わる。根気強く、青年が誘う。今回は戸惑いつつも、青年の手に引かれて、羊毛を手にした。ほかの女の子たちが、紡毛機のまわりではしゃいではベダルを逆に踏もうとしたり、青年を困らせて楽しんでいるのに、男の子の目はひたすらに青年の手に注がれている。おずおずとした手つきで綿を引き出しながらも、目は強い光をはなっている。欲しいものをしった人間の目なのだ。
会場はありとあらゆる手仕事に満たされていた。なんとも繊細で、なのに大胆な仕事の数々。針ひと刺し、シャトルの一往復にそのひとの芸が、術が、こもっているのだ。なのに工業製品と比べても、なんと安価な芸術だろう。ため息がもれる。
この作品の多くは、若くはない熟練した職人の手になるものたち。ほとんどは女性たちの日常の合間から繰り出されている。テキスタイルがアートとして認められづらいのも、古くは織物が農作業の少ない季節の隙間仕事として発展してきたせいだという話もあるくらいだから。けれどそんなことは、今日触れた作品をみればいかほど馬鹿馬鹿しいことかと思う。大きなじゅうたんやマットはもちろん、小さなマフラーの、シルクの布の僅かな端に施された刺し子の糸の質感にまで、まごうかたなき一片の魂が宿っているのだ。こんな芸術品が数万円、へたをすれば数千円で手に入るなんて、それこそ世の中のインフレからいったい何十年取り残されてしまったんだろう。
なかば茫然としながら会場を出ると、先程の男の子はとうとう、紡毛機の前に座り、ペダルを踏み、綿を引いていた。まるで何年もそうして遊んできたような淀みない動きで堂々とリズミカルに、けれど瞳だけは、新しい出会いの喜びにきらめいていた。目の前でさっき紡毛機にわるさをしていた女の子が指をさして笑っていようが、まったく無関係に、男の子は幸福だった。
その全身から溢れだす歓喜のオーラにいつのまにか包まれた私は、糸を紡ごう、と心に決めた。幸福な魂に年令も経験もない。私は、彼に、名も知らぬ彼の夢中な手に感化されて、とてつもなく幸せな旅に漕ぎだすのかもしれない。
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