ヘテロセクシュアルな人の話を読んでいると気付くのは、恋愛のゴールとして結婚があるということ。
これは批判する意味ではなく、例えば私が同性とつきあっているから思いもよらないのであろうゴールが、異性愛社会にはやっぱり当たり前のように鎮座しているという事実に行き当たって改めてううむと思った次第。
では私自身は?という場合。
少し前に、同性婚とかパートナーシップ法とかの話をしていたけれど、私自身はこういう「契約」に対してはもう本当にノンポリシーに揺れに揺れる態度を取っている。エルトン・ジョンが、あるいはイギリスのゲイカップルたちが嬉しそうに式に参列している画像を見たり、ニュースを聞いたりしていると単純に「日本にもそういう制度が欲しいなあ」と思い、たまらなく「結婚したく」なったりする。ところがどっこい、自分の母親が親戚づきあいについてああだこうだ言ったり、最近のように恋人のお母さん・親戚との接点が増えたりすると途端に「面倒くさい。結婚なんてしなくていい」と思ったり。
そういえば、先日手術のどさくさに紛れて恋人の家族との連絡係状態になっていたとき、恋人が冗談で言った言葉に対して私はとても厳しい一言を返してしまった。彼女が言ったのは、
「瑠璃はもう、家族同然の扱いだよね。どさくさに紛れて、ラッキーだったかもー」
これに対して私は、
「あのねヨル、家族、と、家族同然、はまったく違うんだよ。悪いけど、そこは強調させてもらうからね」
彼女が家族に対してカムアウトしていない(といってもばればれなんだけどね)ことを責める気はないが、そこらへんのナアナアさは、「家族でもないのに妙に世話を焼いている親切な友人」という奇妙な立場をとらざるを得ない私としては、我慢できなかったのだけれど。
私のあまりにも「正しい」怒りに対してヨルはヘチャンと凹んでしまった。
今思うと、じゃあカムアウトすればいいのか、結婚できる世の中になればいいのか、家族になればいいのかという大きな疑問はある。
冷静なときの私は相変わらず結婚制度そのものに反対の立場をとる人間で、人はひとりとひとりが繋がって生きる、それでいいじゃないかと単純に思ったりするわけだ。私にとって家族は血のつながりではなく、独り独りが意志と努力と愛で繋がって作り上げるもので、そこに政府は無関係と思える。例えば契約書を作るならば、信頼する人に立会い人になってもらって、彼女と私とで契約を交わす。そのほうがずっとピンとくる。なにしろ政府を信頼していないから、政府の立会い(つまり、法的効果のある契約)に芯のところで惹かれないのだ。それでも一歩家を出ればそんな私の信じるものとは無関係に作られた社会があり、そこに確実に取り込まれて生きていることは百の承知だけれど。自分の中の大きな矛盾に身をよじらせるのはこんな瞬間なのだ。
こういう私の考え方は、おそらく結婚をゴールとする恋愛社会からは隔たっているとも感じる。
けれど、遠くにいながら私はときどき「結婚」と「非結婚」の間を行ったり来たりする人間なのだ。なぜなら私は社会に受け入れられたい。社会の中で「幸せな人生を生きている」と人にも思われたい。ああなんだ。(あくまで)私にとって社会のルールに沿うことはすなわち、虚栄心を満たす行為なのではないか、と、単純に納得。
ふむ。そうなると、やはり私に結婚は不要なのかもしれない。
けれど、周囲に「結婚」の代わりに「親友」の称号を与えられることはちっとも嬉しくはない。
どう思われてもいい、とは思えないとなると、制度云々とは違うところで、やはり愛情の形にバラエティがあるということをこれからもあちこちでちゃんと主張していきたいんだなあ。。
(本当にあくまで、あくまで私の場合ですので、結婚しておられるかた、これから結婚される方、または私と全く違う理由で結婚制度に疑問をもつ方、誤解されませぬよう。。。。。)
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