PMDDらしいという自覚をこの数ヶ月でようやくもってきた。
で、今月はわりとらくちんと思っていたら、来てからが辛い。身体の低調もだけれど、とにかく気持ちが萎える。なんに対しても。生きることに対してさえ、萎える。
でも、良いこともある。
いつもはぷいっと通り過ぎるところに立ち止まってウジウジと考えるのは、私の場合必ずしも悪いことばかりではない。
私のミーハーと物欲は今にはじまったことではなく、どちらも精神の均衡を保てないときの自己防衛本能としてシャキーンと装備される鎧のようなもの、らしい。ミーハー物欲どちらも尋常でない消費行動を伴うのだけれど、物欲のほうは治まったときの虚脱感が激しい。自分自身の本質に訴えかけるようなものは「物欲」では得られないものばかりだからこそ、核となる気持ちのバランスを失いがちなときに表面に現れるのだろうが。
私の核とはなんだろう。そんな答えの無いことを考え始める前に、どうやらきちんと行動したほうが良さそうだ。絣の技術をもっと知りたい。紬糸を作ってみたい。自分が感じ取る美しいものを、自分の手で生み出す努力をしたい。大量生産が悪いのではない。私の「物欲」には確実に「大量消費」によってしか癒されない部分があり、その空虚さを同時に私は大事にしていたりもするのだ。私が一生つきあってゆく私の中に溜まった「膿」は、簡単に搾り出して終わるものではないし、逆に大事にすることで大きくなってしまったりもする。もっと荒っぽく、もっといいかげんにわが身を傷つけたり、消費の波にさらしたり、繰り返さないと息ができなくなったりもする。
膿んで、爛れた私のある部分を、見捨てるでもなく、でもただ大事に癒すでもなく、ちらちらと横目で見ながら、ときどきわざと汚れたつめでひっかいてみたりしながら、ドラッグストアで買ってきたバンドエイドを貼り付けては騙し騙し抱えてゆく。それが私の「生産」であり「消費」でもある。なんと不毛な循環だろう。この循環の輪の最後に「生産」でおとしまえをつけてみせるという矜持だけが私を支えている。
来月、私が近年一番私の核に近い部分で心を揺り動かされてきた劇団が活動停止前の最後の公演を打つ。
十年前に波止場倉庫のがらんどうの空間に古代ギリシャと現代東京の時空を融合させる世界をうちたてた人たちを見て、私は帰りの駅のホームであまりの喜びに踊っていた。芝居帰りなのになぜかホームは倉庫とおなじガランとした冷たさで、芝居に熱くなっていた私は独りで頭からもうもうと蒸気をあげて、心は異空間にきっちりおさまってしまっていた。
最後となるであろう舞台で何を見せてくれるのかという思いより、私の中にひとつの幕が下ろされることへの動揺で、きちんと見届けられるのか、不安にさえなっている。こんな観客は迷惑だろうけれど。
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