ぼやぼやとしながら六本木のABCで本の背表紙を眺めていたら、久しぶりに染織家志村ふくみの本が目に入って手にとった。私もよく覚えている、小学校の教科書に載せられた大岡信の文章にある志村ふくみの桜の枝を使った染めについてのエピソードを読んでいる間に、あやうく涙を落としそうになる。小学生に乞われて桜の枝を使って糸を染めたところ、その色が桜色ではなく、黄味がかった色になって呆然としたという話。その中で彼女は言っている。「子供たちのあいだに失望が広がっているのが分かったけれど、逃げも隠れもできない。これがこの桜の色なのだ」ああ、こういう率直さをどうしても私は指の間からぱたぱたとこぼしてしまうのだ。
あまりにも色々な要素が手に入る環境にあると、なにが必要なのかなにが要らないのかが分からなくなる。
現代で平均よりおそらく低い程度の生活レベルの私だけれど、おそらくは生活レベルの問題ではなく、価値観の問題。頭の中にありとあらゆるものが飛び交ってわけがわからなくなっている今日このごろ。三連休をひたすら自転車で走り回ってみた。一日目は上野にムンクを見に。これは恋人と目的をもって。二日目は吉祥寺にただぶらっと、三日目は六本木のABCまでひとっ走り。三日間の走行距離はおそらく百キロを越えるけれど、距離よりも走っている間なにを考えていたか、いやむしろ、何を考えないでいたかが大事。そう。なにも考えていなかった。
走り回って、でも空白なのだ。怖いことに。頭におがくずが詰まっているかのように、うすぼんやりとあたしをとりまく環境が夢の中のように思える。生きていることを感じるのは、車道をひた走っているときに、スレスレをトラックが走りぬけた瞬間や、歩道で人を追い越すときにそのひとが思わぬ動きをして私が転びそうになったりするとき。つまり、存在があやうくなった瞬間が生命を感じる瞬間だなんて。なるほど。ホラー映画を楽しむ人の気持ちがすこしだけ分かる気がしてくる。
なぜこんなにも生命力が落ちているのか。自分でもどうしてもわからない。ふつうに働き、ふつうに遊び、ふつうに恋人と語らい、普通に本を読み、普通に人形を作り、あるいは自転車を駆る。なにがいけないのか、なにが私の気力を奪っているのか。分かっているようで、分からない。分かったところで取り除くこともできない。本当にわかっているのやら、いないのやら。
書けないあたしには、気力が欠けている。
昨日恋人と話していて、答えの一つをみつけた。
結局あたしは自分の経験や内的世界を自分の中でテキスト化しないでは生きてゆけない。生きてゆく気力を見い出すことができないのだ。それが文章であれ、人形であれ、あるいは他のなにかであれ。それを失っている現在があたしから力を削いでいることは間違いない。なぜ失われているのか、どうすればまた取り戻せるのか、そのヒントが見つかればよいのだが。
相変わらず夢魔に導かれるような状態の中、六本木の街中で迷い、ふと気付いたらうねり身悶えるガラスの建造物の前にいた。初めて目にする、国立新美術館の建物だった。どうみても不吉なバベルにしか見えないのだけれど、好きな人は好きなのか。一流の建造物といわれるものが、私にはどうしても良いものに見えない。中に入りもしないで背を向け、暗くなりはじめた六本木の雑踏に自転車で滑り込んでいった。
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