■朝■
朝起きて、恋人と自転車ちりりん、三十分くらい走って喫茶店のモーニングを食べに。
土壁に囲炉裏の和風な店内で、コーヒーとトーストともそもそ食べながら、松浦理英子の新作談義。ラストについての意見が分かれてちょっと盛り上がる。
食べ終わってまたちりりんと帰る道すがら、中古バイクの店に入ってあれこれまたがってみる。アメリカンが格好いいなあ。どうせ乗るなら400、と原付免許すらないくせに嘯いてみる。ライダーな恋人は怖いもの知らずの素人なあたしの言動に苦笑い。いいのよ、夢見るだけはタダでしょ。怪我もしないし。
■昼■
家に戻り、薄いインスタントコーヒーを飲んで恋人は仕事の書類を持って外へ。家より外のほうが仕事が進むらしい。ちと寂しいが、気持ちは分かる。残ったあたしは準備をして近所に芝居を見に行く。またまた自転車ちりりん。近所といっても道に不案内なあたしは二、三十分は走る。信号待ちで地図を見ながら、無事たどり着く。もう気付けば初めて見たときから十年以上になる劇団、風琴工房。見なかった数年のブランクの間に大きく変化したらしいけれど、それでもやっぱり見続けたい集団ではある。
■夕方■
演目は、世界ではじめて人工的に雪の結晶を作り出すことに成功した研究者とその研究室の面々を描いた、「砂漠の音階」の再演。とにもかくにも何かにかける情熱というものを形にして見せられることに、純粋に感じ入る。大正から昭和という時代、女性たちが銃後の存在であったことと、その一方で第一線に立ちたいと足掻いている人もいたことと、そのあたりの微妙な線をもう少し見れたらなと思うけれど。今日の芝居を見ている限り、っこの作品において演出家の意図はおそらくはほのぼのとした夫婦愛の陰影に男女関係の機微を集約して見せたことで達成されてるのかもしれない。私自身の今とは重ならなくとも、また見たいと思うものは貴重。
□合間□
女性の社会進出なんていう言葉があまりにも新鮮さを無くしている現代は、だからといって女性という「性」が異性と同等(同じ、ではなく、同等、という意味)の権利を獲得したわけでもない。ただ喧しいメディアに食い尽くされたジェンダー問題は、男女の別なくほとんどの人たちにアレルギー的症状を与えているように思える。私も含めて。けれどそのアレルギー的症状の表れ方は人によってあまりにも違う。その違いこそがジェンダー問題の一番根底にある困難さなのだと思う。
反発を感じず、かといって阿られている感覚もなく安心して見られる、読める、接することができる「芸」が本当に少ない今だから、本当はそういうことを考えないでいられる自分のいられる場所をいつも探している。もう何も考えたくない、誰とも争いたくないし、心の中に漣を立てることさえイヤだと思うけれど、この世の中はそんなプレーンなものではなく、逆にそのストレスさえも含めてこの世を私は結局愛しているのだと、最近思う。倦み果てることもなく、毎日生きて食べて遊んで働いて眠って。人生の底辺に常に流れ続けるテーマのように諦めや苛立ちを抱えながら、それでも私は「女として」この社会で生きてゆくのだと、いつも思い知らされる。けれど社会的な性と、私自身の中にある性はまた違うのだ。私の中にある性はいつも揺れ続けていて、どの性も選びたいのに選べない。
どんな形であれ、この地に足をつけて踏ん張っている人々のパワーを感じるにつけ、揺れ続ける自分の弱さの中に、逆に揺れ続けることを選ぶという意味での強さをもてないものかと思う。社会の中で「女である」こと、その女を私自身の芯の何かが拒絶していることの矛盾を、どうにかして力に変えられないものか。こうして私の逡巡は続く。
■夜■
芝居がはねてから、劇場近くに雰囲気のよい喫茶店を見つけて、しばしお茶。ロイヤルミルクティにカリっとしたマドレーヌ。店主らしき女性の丁寧な接客に心が和む。店の名前はどう見ても、森鷗外のファンでしょうあなた、と言いたい名前。今度行ったら店主に聞いてみよう。
そうして自転車ちりりん、帰ってから、恋人のお里から送ってもらったすき焼き用の牛で、たっぷりすき焼き。倒れるほどに食いつくす。よく食べ、よく走り、よく遊んだ良い一日。明日は友人に誘って戴いた琉球の染め織りを見て、祭りで遊ぶ予定。かなり充実しているこの週末。今も刺激をうけて、ひりひりと心のあちこちが痛いけれどこれはきっと大事な痛みでもある。
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