漁っていた古い本の中に、ロンドンのNational Galleryや、Tate Galleryの便覧があって、眺めているとここでもまた、気付く。画家の絵に描かれているものには、その時代それぞれに絵を支える陰影があり、それらは今の時代の乾いた感覚から、また二十年前のウエットさから、隔たりつつも同じFine Artという大きな流れを彩るカラートーンのグラデーションの礎を成している。画家の筆による絵の具の厚みは、確実に描かれている人物に色彩以上の重さと、油の『馴染まなさ』からくる独特の存在感を与えている。
画材の不自由から解放された写真家はけれど同時に、画材の生みだす世界観からも追放されてしまった。いや、むしろ描かれる世界のほうが、あるいは画材の変化によって変わる羽目になったような錯覚にふと、落ちる。だってホルスの絵筆が描きだす酒場の親父と、アントン・コービンの写すホリー・ジョンソン(ほら、すでに匿名性が奪われている)と、あたしが携帯カメラで撮るうちの猫(匿名性を飛び越えて、あまりにもプライベート)と、技術や芸術性の格差以外に、あまりにも違う空気感。密度だけが上がり切って飽和状態の携帯スナップにはこれでもかというあたしの(あるいは猫の、この場合『あたし』と『猫』が同義であることもまたポイント)私的情報が詰まっており、それを日記で知人友人に公開するという行為も情報の質を決定付けている。密度が高すぎて、絵筆という具体的な媒体の存在さえ許されない奇妙な緊張感。描かれる陰影は粒子ではなく、RGAの数字情報として細かにみる人の脳裏に写し込まれる。
油絵の具の厚み、かの時代の重さと光の粒子は、現代の空気感の中でどうすれば出せるだろう。いきなりホルスやレンブラントに飛べずとも、二十年前の光のもつ重さ、湿り気をあたしは記憶しているのだから。
ウエットな人形。すこしずつ形をかえながらぼんやりと見えてくる気が、する。
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