ついさっき本棚を見るともなく見ていて気付き、衝撃。
私の棚に文庫のナチュラルウーマンが二冊ある。なんでだ??いったいいつ二冊に増えたんだ。。。というより、そもそも二冊あったということに、なぜ気付かなかったんだろう。呆然。気になって奥付を見ると、どちらも同じ河出の文庫でもう十年も前の版。刷りが19刷と20刷。わずか半年の間に二冊買ってる。ブックオフなどで買ったのではない。あのころあたしは松浦に傾倒していて、おそらく外で今すぐ読みたいとばかりに書店に走ったのだろう。あ、かすかな記憶に日があてられた。というわけで、本棚には二冊の文庫と一冊のハードカバー。あのころの松浦ホリック。
ムーミン谷の11月、繰り返し繰り返し読んで。
ふと戻るのは、ムーミンパパ海へ行く。
このママが好きだ。妄想の中へ逃げ込んでゆくママが好きだったりするのだ。
以下、トーベ・ヤンソン作品とはまったく関係の無い個人的な話。家でご飯食べるときにちょこっと話す類のことと。
最近とある場所で「●×」と呼ばれてうひょーっとなって、ちょっとグラグラしてたりしてたんだけど、トーベ・ヤンソンとてあれだけセクシュアリティをオープンにしていてしかもあれだけ有名だったのだから、思わぬ場所で「●×」ってくらい(いや、スウェーデンの言葉でそれにあたる言葉?)は呼ばれたことも一度や二度や百度や千度ではなかったろうとか思って考えてみたりします。ヤンソン自身はなにしろスナフキンに看板嫌いでキレさせてしまうくらいの人なので、どう考えてもどんな意味でもカテゴライズを好んだとは思えないのだけれど、いったいどんなふうに乗り切っていたんだろうと途方にくれる。
なにしろ私らが生きているこの世の中は、雑多でまったく不均一な価値観をもった人々がせめぎあっている。。。ように見えて、実はそうではなく、かなり似通った価値観の人々がそれぞれちっちゃなグループを作って生きている。ヤンソンが生きていた当時よりも、もしかするとグループの大きさは大きいかもしれない。だからそのグループが実はグループであるのだということに普段は気付かないのだけれど、私とてもそのグループの一つに無意識に属してしまっているんだな。だからたまにふとした拍子で他のグループと接触すると今回みたいなショックを受ける羽目になる。普段私は雑多な中にいるのだと勘違いして、実は自分の居心地のよい場所にぷかぷかと浮かんでいるだけなのだということを、往々にして気付かされるわけ。
「●×」という言葉はそれでもやはり衝撃で、けれどおそらくすごく一般的な言葉。私がその言葉に普段正面衝突することが少ないのが、私が自分と似通ったグループの中でぷかぷか浮かんでいるだけだといういい証拠なのだ。人々に気を遣ってもらって今の私がのほほんと生きていて、それを有難いと思いつつも、複雑な思いを捨てられない。カテゴライズ嫌いの、カテゴリー狂いは、このあたしなのだろう。
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