トリエステのうつくしさにはとげがある。
たとえば、花をささげるには、あまり
ごつい手の、未熟で貪欲な、
碧い目の少年みたいな。
ウンベルト・サバ『トリエステ』(須賀敦子・訳)
煌めく海を乞うたサバとは違って、私が乞う水は流れる水、沢だ。
海を限りなく求めるのは、北の漁港近くに生まれ育った恋人のほう。
私の記憶のなか、懐かしい沢は、祖父母の暮らした家が張りつくように建つ、切り立った崖を迂回して流れる小さな小さな川。
その家にいる間ずっと、絶えることなく聞こえていた水音は、私の限られた夏時間に流れてゆく幸福を、底からそっとさらっていった。「ずっとここに棲んでいたい」と小さく訴える中学生の私に、母はいった。それは、あんたがここで生活していないからよ。二十九までこの淋しい沢に暮らした若かりし母の望みが東京へ出て一人で暮すことであったことを、当時私が知っていたかどうか、覚えていない。彼女は大家族の長女の義務を果たすために夢破れ、ひたすら山から連れ出してくれる男性を待ったのだ。
嫁いだ彼女は夫について日本全国を転々とする。そうして行く先々でいつも、住む場所近くに大小さまざまの川が母を迎えた。彼女が抱えた娘もまた、家のそばを流れる川で遊び、来る夏ごとに母に連れられて訪れる田舎の沢川の水音に心を慰められた。
川は沢から地方の支流、あるいは大きな湖に注ぐ流れとうねりながら姿を変え、祖父母から母へ、そうして私へと受け継がれてきた、まさに一本の流れなのだ。私は血の流れに逆らう、いつも。けれど川の流れにはただ身を任せてみたいと、そう思う。
海に焦がれるトリエステのサバは、あの波を懐かしく思うのだろうか。
恋人が、捨ててきた故郷に二度と戻りたくないとつぶやきながらも、テレビに雑誌に書籍に海がその大きな姿を見せるたび魅入られたように手を止める。いや、姿さえなく、ただ汐の香りの漂うような海っぺり(恋人はこういつも呼ぶ)の町にさえ敏感に反応して遠い目をする。その目の中には、私が沢水を乞い一心に川へと流れ込みたい思いとは種類の違う恋しさ苦さ痛みが、ゆらゆら燃えて大理石のように複雑な模様を描く。そんな表情に私が漠然とした不安を抱くようになったのは、恋の熱が互いの違いを楽しい刺激だけに換えてくれた時期をとうに過ぎたころ。途方に暮れるでもなく、ただ『こんなにも違う』と、思うだけではあるけれど、その違いは恋人と私の棲む水の違いでもあることが、私の胸を騒つかせる。
巌から染み出た雫からはじまり、やがて忙しなく流れる沢水。
激しい嵐を沖のほうに隠しもつ大海。
かの地に降り立つ須賀敦子の飛び立つおもいは、やはりトリエステを愛したサバがペッピーノを招き、そうしてぐるりと回って須賀敦子の中に思い出を引き寄せた。この追い駆けっこは、海が生んだ愛の連鎖。
恋人が思う北の海は、私が愛する沢水は、どんな流れを生むのか。何十年後、半世紀もたって。彼女も私も塵とうせたころ。私たちの、血から遠いところに静かに新しい流れを作った私たちの水を慕うひとはあるだろうか?
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