なんだか唐突なタイトルになってしまった。
先週まで東京都現代美術館で開催されていた創作人形の展覧会へ行ってきた。
最終日の前日ということもあってか、かなりな人波にちょっと圧倒されてしまう。
今まで行ってきた人形展はどれも人の数より人形のほうがはるかに多いものだったりして、「人形をゆっくり見る」という感覚さえ逆になくて、人の頭の間から人形を見るなんてちょっとびっくり。
でも、結局一番長く見ていたのは、ひとりの作家の前。
言うまでもない、私が好きな天野可淡。
可淡の人形たちは、見世物小屋のような黒テントの陰に配置されていた。
ほとんどの人形たちが一様に、上方を仰ぎ見た姿勢でいる。
30代の終わりで夭逝した可淡の人形は、全体の作品数は分からないけれど、人目に触れる条件の揃った人形は数少なく、昨年の個展(回顧展というべきか)と、今回の展覧会で見たものですべてだろうと思われる。
今回展示されていた人形は、全部で10体あまり。
ほとんど全てが、写真集にも収められている人形たち。
今回初めて直接御目文字かなったということになる。
一体一体よりも、全体を見て気づいたことがある。
創作人形を見ていると、いつも感じる「作家の我」というものが、可淡のものにはほとんど感じない。特に今回のものは、所有している人の扱いがよかったのか、それとも展示した人の人形への敬意が深かったのか(多分その両方だろう)、おそらくは制作時にごくごく近い形で服も人形本体も展示されており、もっとも人形の素が見える形での展示だったと思う。
だからこそ、はっきりと見える。
可淡の人形たちは、可淡という親から生み出された、共通の魂を持つ一座であると。
可淡は人形たちの親であり、制作者ではあるけれど、決して自己表現に埋没するタイプの人ではなかったと感じる。
人形たちの表情の翳りが、古ぼけた洋服の色彩が、そしてそれらの奇妙な調和が、見世物小屋にあたるほの暗いスポットの中、淡く浮かびあがってくる。
一体一体が独立した表情を持ち、且つ他の人形たちと完全に同じ世界に属している。
ヨルが言った、
「サーカスの一座みたいだね」
という言葉が、まさにそれを表していると感じる。
スポットの薄くあたる片隅に、小さなうさぎがうつむいていた。
ほとんどの人形がひとびとのはるか上方を仰ぎ見ている中で、うつむく白兎は、何を思うのか。
ほそく立った耳のやさしいラインに、普段人形には感じない、心の柔らかい部分をゆるりと握られる。
人ごみの中ですれちがった誰かの高価な毛皮のコートに触れたとき、家に待つ小さな猫を思い出して切なくなるような、そんな感じ。
命あるものに感じるのと同種の口に出すのも気恥ずかしいような、愛しさ。
見ている人の感じるその種の愛しさが、テントの下の人形の一体一体を、包み込んでいるのかもしれない。
可淡一座。
座長が死しても、一座の旅は終わらない。
dolls_of_innocense
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