大きな美術館で見るのが久しぶりなのでわくわくしながら出かけた。
横浜美術館にて束芋「断面の世代」を鑑賞。
鑑賞というかなんというか、むしろ「体験」に近い感覚。
作家の宣伝動画で「とにかくその場で見てもらわないと」というようなことを云っていたのに納得する展示。あたしは平面作品のインスタレーションというもののイメージがわかなかったのだけれど、なるほど彼女のやり方なら立体でないといけなくなるわけだ。彼女の手法の数々に意味を見いだせる。
肉筆画へのこだわり。
=線画の動きに電子的な規則性がなく有機的であることにより、動画の中の動きに意味が与えられてゆく。
digital処理へのこだわり。
=奥行きのある場所へプロジェクターを使って投影するときに、その角度や映像がfade outするタイミングなどはアナログな処理ではぎこちなくなる。アニメーション化するときの手軽さは彼女の線画の瞬発力を活かすには大事な手法と思われる
大規模なインスタレーション
=入り口の巨大な壁を使ったインスタレーション「団地層」。アパートの個室を並べてそれらの家財が次々に落ちてゆくイメージ。これだけの大きさを実感できることが見る側への圧迫感を与える。
展示の概要ページはこちら。
http://www.art-index.net/art_exhibitions/2009/12/post_714.html
なんつって色々書いても、一番この展示の面白かったことを書き出すことにはならない。
展示の中に、「Blow」という作品があって、それは誰かの中の断片の中に入り込むようなコンセプトだったように思う。壁の三面(両壁面と床)をスクリーンに、色々な生物(無生物?)が人の手から足から出てきて、あるいは花から人の足が生えてきたりとか、それはそれは奇妙なアニメーションが展開されてゆく。見る人間はその部屋に入って、それを体験するのだ。体験。まさに。あたしはその部屋に入って、しばらく壁面の闇にしゅるしゅると描き出されてゆく巨大な赤い薔薇を眺めている。すると足下からばらばらばらばら、泡が吹き上がってくるのだ。ふと見ると、入ってきている人たちが一方の壁に沿って一列に並んで、礼儀正しく片方の壁を見ている。床に浮かぶ泡も踏まず、壁の映像を右左にまるでテニスの試合を見るかのように一斉に振り返り向き直る。あたしは一人外れて展示の床のど真ん中、吹き上がる泡の中心に立っている。ふうんと思って壁面に並んだ人々を眺めていると、彼ら彼女らは一斉に片方の壁に展開している事(花が生えたり、茎が咲いたり)を見て、また誰かが彼らの真後ろの壁面に何かを見つけるとまた一斉にそちらを見る。意地悪なあたしは彼らが夢中で見ている側と逆の壁を見ていて、わずかな変化に表情を変えてみせた。すると彼らはめざとくあたしの動きを捉えて、自分の後ろを振り返る。あたしはそういう遊びに飽きて、また吹き上がる泡の真ん中にそろそろ移動して、次の骨格ムカデが飛び回るのをじっと待っている。そうだな、中に入った人は、おそらく自分の断面を気づかずに中に入ったほかの人たちに見せてもいるのだ。あたしは大きな作品の中でお行儀良く座っておられず、興味深い色が見えたらそちらへ寄り、また面白い動きがあったらそっちへいく。吹き上がる泡に巻き込まれてみたいと思えば、泡の中心に突っ立ってみるのだが、壁際に並んだ人たちは他の人が作品を見やすいように、見やすいようにとひたすら黒子になってゆく。そうか。黒子であることもまた、一つの断面だ。
また、「団断」というインスタレーションというより動画?作品では、奥行きのあるスクリーンに映し出された動画で、同じ構造のマンションの個室の中に暮らす何の関わりも持ち合わない個の部屋をてんでバラバラに、あるいはつながりを持って描き出してゆく。どこが最初でどこが終わりなのか、今ひとつ判然としない作品の中、人はシャワーを浴びて風呂に入り、冷蔵庫の扉を開けてそうして中へと消えてゆく。トイレの水で顔を洗い、二階の無いマンションの幻の階段を上ってゆき。やがて同じ構造の別々の部屋は、その個性を踏みにじるように、叫ぶように、やがて一つ一つのタンス、テーブル、椅子、扇風機、ちゃぶ台、洋服、布団、等々ありとあらゆる家財道具がぱっくりとあいたマンションの断層へとガラガラ崩れ落ち飲み込まれてゆく。やがて吸い込まれた闇から一羽の鳩がとびたち、そうして破れたガラス窓からまたマンションの個室へと飛び入り。。そうして動画は巡り巡ってゆく。その動画をあたしは真ん前の椅子に座り込んで二回、三回、四回と見た。繰り返し、繰り返し。誰もが鳩の出てくるあたりで席を立つ。なぜこれが区切りだと誰も分かるのだろう。確かに多少暗くなる時間は長いが、演出の域だと云われればそれはそれで納得する程度の空白。誰でもが無意識にストーリーをつけているのだ。こんなナンセンスに貫かれた映像でさえも。
「ちぎれちぎれ」では、ふと見ると小さな開口から見ると中の天井に雲が流れ、床に円柱に横たわる男性の肉体が描かれる。一見なんの意味か分からないので、雲の流れを一通り見た人はそのまま中に入らず通り過ぎるのだが、一歩入ると、それが中に人が入って初めて完成する作品であることに気づく。この作品の全壁が鏡になっていて、空を流れる雲は床にも流れ、円柱に横たわる人物は、実は上の円柱にぶら下がるように張り付いているのだ。それらを床の鏡の中に覗き込めば、覗き込んでいる自分自身が空の雲を背景に映り込む。つまり、見る人によって作品は完全に異なる主役を得る。
束芋のコンセプト、「個」の世代というものは何も新しい思想でもなんでもないし、60年代以降(自分が60年代で、それを切実に感じているから)生まれた人間なら少なくとも実感したことのある考えだと思う。もっと「全体」あるいは「塊」でみたほうがずっと楽だし精度の高い見方になる可能性が高いのに、あえて「個」の違いに重きを置く。あるいはそうでなければならないという考えに固執する。その目新しくもない考えを、けれどしつこいほどにしつこいほどに表現を重ねて描き出してゆく。マンションの、アパートの、同じ間取りに暮らす違う人々の接点の無い暮らしを、淡々とただタンタンと何十にも重ねて見せる。あるいは個々が持っていて、けれどuniversalに同様の機能を持つ筋肉や内臓という器官を手を変え品を変え登場させて、いったい個々の何が違うのだ、と突きつけてくる。と同時に、見ている人間も決してただ突きつけられるばかりの受け身ではなく、作品の中に紛れ込み、その作品をそしゃくすることで作品自体の何がwholenessで、見る人間がどこまで作品に関われることで個別性を浮き上がらせられるのかを証明してみせることができる。
あたし自身、動画を見るときに動きそのものに注目していると、ドットの一つが点灯して次が消えて、という動きを意識しただけで楽しくなると同時に疲れる。疲弊する。束芋の作品の多くは最終的に映し出されるのはプロジェクターあるいは液晶画面だったりする。手書きの線の不確かで強弱が人の意志になる作品が、digitalに置き換えられ例えば動画として光の粒になって記憶されるとしたら。と思う。あたしのフェティシズムは手描きの一本一本の線ではなく、数字0101に置き換えられて記号となり、発散される瞬間に光の粒となったその先に注がれることになる。すでに線は「もの」と定義さえおぼつかないその先へと進んでいて、あたしのフェティシズム(欲望)は、当然のようにdigital化されて個々がどこまでも平均化される、個の意味が希薄になってゆく先にあるのかもしれない。
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