※中山可穂「エレジー 悲歌」のネタばれ含みます。
あたしは中山可穂の「天使の骨」を暗記するほどに繰り返し読んでいる。
正直言って手元に無ければ不安になるような本は、あの一冊とヘンリージェイムズの「ねじの回転」とトーベ・ヤンソンくらいだ。
クタクタになって青い装丁のカバーも擦り切れたあの文庫本をあたしは愛して、仕事をしていない昼間、あるいは友達カップルと待ち合わせたビジネスホテルのロビーで、繰り返し読んだ。何故かいつも雨の日だった。別に雨の印象的な描写があるわけでもないのに、この作品の思い出は雨に濡れている。ウォーホルの描いたクリスマスツリーのハードカバーも持っているが、あたしが持ち歩いてあたしの日々があの青いひょろひょろした天使の絵のほうだ。
新作「悲歌 エレジー」に収められたみっつの中篇は、特に最初のニ作「隅田川」と「定家」は幻想小説といっていい、幻に支配された小説だ。能楽から題材をとられたということらしいが、どちらもあたしは原典を知らないので、純粋にこの中山可穂の筆による作品だけを見ることになる。「隅田川」は、雑誌に掲載されたときに買って読んでいて、その雑誌は今も手元にある。「定家」は書店で立ち読みした。「隅田川」の少女たちの心中事件と彼女らを見つめる主人公女性の視点は、完全に傍観者のそれで、あたしが惹かれたのは少女たちの描写。思い通りにならない社会を金属バットで叩き壊し、愛するものともども破滅の道を死へ向かって突き進む。覚えのある感情はあたしを落ち着かなくさせる。今あたしがいる位置はそこからあまりに遠いからだろうか。死出の道には向かわずとも、あたしはいつでも爆発物を抱えていることに変わりは無い。「定家」は、夫のいる女性と恋に落ちた作家の死を見つめて伝記を書こうとする文筆家を描いている。いや、本当に描かれているのは主人公の文筆家ではなく、彼女が描く亡き作家だ。マニアックなホラー小説を書き、ごく一部のコアなファンに支えられていた作家。自分の本を出している出版社の会長夫人と恋に落ち、悲惨な最期を遂げる彼は、どこか中山自身を思わせるところがある。というより、おそらく意図的に彼女はそういうイメージを自分につけている。あたしはこの話に彼女の核を感じることが出来ないし、遠いものを追いかける回顧がないゆえにより明確に彼女の傍観者としての立場が浮き上がる。三つ目、この本の半分のページを占める「蝉丸」は唯一、傍観者ではなく物語の中にある人の話となっている。なのに、立場は傍観者よりひどい。完全に「才能」に嫉妬するサリエリの話なのだ。なぜ中山可穂は中心からずれる人になったのか。どうも見えない。ラストの締め方だけがあたしの愛する「天使の骨」を思わせる。けれどこの中心から軸がずれてしまった主人公に幸せな将来が見えるのか。どうなのか。どうもあたしには光が見えない。そしてそのことが、中山可穂の慢性的な不幸に対してNoを言いたい気持ちに繋がってゆく。幸せになりたいという気持ち、その気持ちをゆがめず純度を高めることは、小説において文学においてもっと単純に為されるべきなんではないか。複雑な手順はメロドラマ性しか高めないように感じるのだ。
「天使の骨」にはその純粋さがあった。久美子という登場人物には、血が通っていた。主人公がどこまでも追いかける光を胸に抱いていた。その関係性がつまり、物語の純度。関係性の問題を、言い訳にしていないしそもそも性別が互いの心のあり方を縛っていないから。
ラストから、どこか蝉丸は天使の骨を思わせて、あたしはやはりきらいになれない。それでも中山可穂が好きなあたしは彼女が物語の、人生の、主役としてそこにただ存在するようになることを、願わずにはいられない。
最近のコメント